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「石井桃子のことば」を読む  若菜晃子さんと

大人になってからあなたを支えてくれるのは子ども時代の「あなた」

前田礼 市原湖畔美術館館長代理/アートフロントギャラリー

石井桃子のことや山のこと、自らの仕事のことを語る若菜晃子さん石井桃子のことや山のこと、自らの仕事のことを語る若菜晃子さん

みんな、石井桃子の本を読んで大人になった

 石井桃子(1907-2008)は、編集者・翻訳家・作家として200冊以上の本を世に送り出し、101年の生涯をまっとうした。『石井桃子のことば』(新潮社とんぼの本)は、編集者・若菜晃子さんが、著作や談話、親交のあった人々へのインタビューから石井桃子のことばを集め、その生き方と仕事を明らかにした珠玉の一冊だ。

 石井桃子が日本の子どもの本の礎(いしずえ)を築いた人であることは認識してはいたものの、菊池寛のもとで翻訳のアルバイトを始めたことが出版界に入るきっかけであったこと、文藝春秋社、新潮社、岩波書店と名立たる大出版社で編集者をつとめ、日本の近代文学史に登場する大作家たちと近しく交流していたこと、自ら出版社を立ち上げ、『たのしい川辺』と『ドリトル先生「アフリカ行き」』を最初そこから出版していたこと、終戦の日から宮城県鶯沢村で農業を始めたことなど、私にとって初めて知ることは多く、とても新鮮だった。

 すべての著作に書影と短い解説をつけた渾身(こんしん)の「石井桃子全著作リスト」は圧巻で、それを見ると、幼い頃から親しんできた本の多くが石井桃子の手になるものだったことにあらためて驚く。

 プーさんも、ドリトル先生も、うさこちゃんも、ピーターラビットも、ノンちゃんも…。私たちはみんな、石井桃子の本を読んで大人になったのだ。

街と山の間を吹く、爽やかな風のような人

子どもの頃に読み込んだ石井桃子の本をたくさん持ってきてくださった子どもの頃に読み込んだ石井桃子の本をたくさん持ってきてくださった
 今年は没後10年ということで、石井桃子をめぐる展覧会やフェアも多い。しかし、『石井桃子のことば』が出された2014年当時は、その生涯や仕事がまとまった形で見られる本はなかったそうだ。

 この本と相前後して読売新聞編集委員の尾崎真理子さんが『秘密の王国―評伝・石井桃子』(新潮社)という大著を出版されている。尾崎さんが石井への200時間におよぶインタビューを行っているのに対し、生前の石井に会うことのなかった若菜さんは、ひたすら著作や寄稿文を読み、残された本棚を眺め、その足跡を訪ね、同じ道を歩き、親しかった人々に会い、そこから感じたことをもとに、ことばを拾い上げて行った。

 実は私は、読書会「少女は本を読んで大人になる」の企画で、パートナーであるスティルウォーターのメンバーからご紹介されるまで、若菜さんを存じあげなかったが、このような方の存在を知ることができたのは、大きな喜びだった。

 若菜さんは大学卒業後、「本をつくる仕事をしたい」と山と溪谷社に入り、そこで山の魅力に目覚めていく。その後、独立し、山や自然、旅に関する雑誌、書籍を編集、執筆し現在に至っている。

 特に素晴らしいのは、「街と山のあいだ」をテーマとした『mürren(ミューレン)』という小冊子を10年以上、編集・発行し続けていることだ。年2回発行の横長の小さな雑誌は、他にはない独自の視点で編まれており、書店だけでなく、雑貨店やカフェなどの販売先も多く、全国に愛読者をもつ。

 若菜さんのなかで、山に行くことと、街で仕事をすることはごく自然につながっていて、仕事のスタイルそのものが生き方になっている。街と山の間を吹く、爽やかな風のような人である。

ヒルダ・ルイスの『とぶ船』の魅力

『とぶ船』(岩波少年文庫)ヒルダ・ルイス作。石井桃子訳『とぶ船』(岩波少年文庫)ヒルダ・ルイス作。石井桃子訳
 若菜さんもまた、幼少時より石井桃子の本を読んで大人になった人だが、果たして、彼女が今回の読書会のために選んだ一冊は、ヒルダ・ルイスの『とぶ船』だった。

 1939年にイギリスで出版されたこの本は、石井桃子が『君たちはどう生きるか』の吉野源三郎らと共に創刊に関わった「岩波少年文庫」の一冊として、彼女自身によって1953年に訳出された。

 『とぶ船』は、魔法の「とぶ船」を手に入れた主人公が、きょうだいたちと古代エジプトやロビン・フッドの時代、北欧神話の世界などを冒険旅行するという、タイム・ファンタジーの傑作である。今回、本当に久しぶりにこの本を再読し、物語の世界に入っていく「あの感覚」をなつかしく思い出した。

 この本が感動的なのは、子どもたちが魔法の船によって体験する時間旅行の面白さもさることながら、最後に主人公ピーターが自らの意思によって「とぶ船」を元の持ち主に返しに行くシーンがしっかりと描かれていることである。

 他のきょうだいたちが、冒険は彼がつくりだした素晴らしいお話だと思っていく一方で、ピーターは最後まで魔法の力を信じ、信じる力があるうちに船を返そうとする。主人公と同じ名をもつ「ピーター・パン」は永遠の少年であり続けることを選ぶが、『とぶ船』のピーターは子ども時代の終わりに自覚的で、それゆえに、魔法の船との別れのシーンは切ない。

 さらにこの本では、「とぶ船」によって魔法のようなこども時代を満喫したそれぞれの子どもたちが、素敵な大人になったことにまで触れられている。まさに、石井桃子の「大人になってからあなたを支えてくれるのは、子ども時代の<あなた>です」ということばがそのまま物語になっているのだ。冒険物語には、「子どもの心」をもった素敵な大人たちも登場する。

読書は心の中にある「山」に行くこと

昨年、エッセイ集『街と山のあいだ』(アノニマ・スタジオ)を出版した。近く続編が出るという。昨年、エッセイ集『街と山のあいだ』(アノニマ・スタジオ)を出版した。近く続編が出るという。
 石井桃子は、めくるめく本の世界に没頭した自分自身の忘れがたい体験から、子ども時代のかけがえのない読書の場をつくろうと、自宅を改築して「かつら文庫」を開く。それはやがて家庭文庫ブームに火をつけ、一大ムーブメントとなっていった。

 若菜さんも、近所にあった子ども文庫に通ったひとりで、当時を振り返りながら、「私は今でも、日常と、日常とは違う別世界とを、自由に行き来するのが好きである。それは案外簡単なことだと、子どもの頃から知っていた。その世界は心安く、たいへん静かで、ふかぶかと心地よい。たけのこ文庫はその入口のひとつであった」と書いている。

 大人になった若菜さんにとって、街と山のあいだを往復することは、かつて本の世界でそうしたように、日常と、日常とは違う世界を行き来することであり、若菜さんが「山は思っているよりも近くにある」と呼びかける時、それは現実の山を指しているとともに、私たちの心のあり様をも言っているように思う。そしてまた、本を読むということは、心の中にひっそりとある「山」に行くことでもあるのだ。

静けさのある時間と空間をつくりだす図書室

読書会で毎回用意される、おむすびとお茶。今回は、昆布と九頭龍舞茸のおむすびと、The daysのハーブティはリラックスブレンド(アッサム、ミント、パンダンリーフ)読書会で毎回用意される、おむすびとお茶。今回は、昆布と九頭龍舞茸のおむすびと、The daysのハーブティはリラックスブレンド(アッサム、ミント、パンダンリーフ)
 静けさ――。そう、本を読む体験のそこにあるのは、この感覚なのだ。それは、スマホやパソコンの画面を通してでは決して得ることのできない感覚であり、そうした時間と空間をつくりだすものとして図書室がある。

 私たちもまた、ささやかな図書室「ヒルサイドライブラリー」 を代官山にあるヒルサイドテラスの一角で運営している。ヒルサイドテラスを設計した槇文彦さんは「都市とは集団でありながら、孤独性を享受できる場所である」と語り、クラブヒルサイドのディレクターでもある北川フラムは「街には本のある場所が必要だ」としてこの図書室を構想した。

 石井桃子は「ひとりであること」を尊ぶことばをたびたび語っている。そして彼女の傍らにはいつも本があった。

 本のある場所があることの意味を、石井桃子、そして若菜さんのことばを通して、あらためて思う。

本は友だち。一生の友だち。
子ども時代に友だちになる本。
そして大人になって友だちになる本。
本の友だちは一生その人と共にある。

『石井桃子のことば』の扉に掲載された石井桃子の自筆色紙の一部『石井桃子のことば』の扉に掲載された石井桃子の自筆色紙の一部

(撮影:吉永考宏)

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次回の読書会は、ゲストにフォトジャーナリストの安田菜津紀さんをお迎えして、12月20日(木)19時よりクラブヒルサイドサロン(代官山)で開催します。テーマは「"遠い地″へと向かう想像力――『100万回いきたねこ』から『ぼくがラーメンたべてるとき』へ」。ご参加をお待ちしています。
http://hillsideterrace.com/events/4887/