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[2018年 本ベスト5]AI/ITへの疑問

『デジタルネイチャー』、『技術の完成』、『さよなら、インターネット』……

福嶋聡 MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店

落合陽一氏落合陽一氏

落合陽一は、敵を回すには間違いなく手強い

 今年6月に、落合陽一の『デジタルネイチャー――生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』(PLANETS)が出た。

 落合の著書、共著書はよく売れる。同世代、あるいは同時代のオピニオンリーダーとしての地位を、すでに獲得している。ホリエモンこと堀江貴文との共著『10年後の仕事図鑑』(SBクリエイティブ)も、ずっと売れ続けている。

 落合陽一は、ぼくがずっと気になっていた書き手でもある。本の売れ行きも理由の一つだが、何よりAI/ITによる社会・労働・経済・政治の変革を志向、というより自明視しているように思われる節が、AI/IT信仰に疑問をいだき続けてきたぼくに、落合の言説とその影響力を看過させないのである。

 落合陽一のいう「デジタルネイチャー」とは何か? 落合自身の定義を『デジタルネイチャー』から拾う。

 “デジタルネイチャーとは、生物が生み出した量子化という叡智を計算機的テクノロジーによって再構築することで、現存する自然を更新し、実装することだ。そして同時に、〈近代的人間存在〉を脱構築した上で、計算機と非計算機に不可分な環境を構成し、計数的な自然を構築することで、〈近代〉を乗り越え、言語と現象、アナログとデジタル、主観と客観、風景と景観の二項対立を円環的に超越するための思想だ”

 そして彼は、“本書では、〈近代〉を〈イデオロギー〉ではなく、〈テクノロジー〉の側面から乗り越える可能性を考える”と宣言する。

 テクノロジー、特にAI/ITが今日の「環境」の重要な構成素であるという落合の見立てを、ぼくも共有する。ぼくたちが「コンピュータによって処理されたある種の自然環境(ネイチャー)の中で生き始めている」ことは、そのとおりだと思う。

 だが、続けて「サイバネティクスとユビキタスのその先にある世界で、コンピュータが果たすだろう重要な役割の一つが『人類知能の補集合』になることだ」(『デジタルネイチャー』P.96)と言われると、むしろぼくたちが「コンピュータの補集合」になりつつあるのではないか、との危惧を強く抱く。

 「〈テクノロジー〉の側面から〈近代〉を乗り越える可能性」についても、ぼくは疑問符をつける。〈テクノロジー〉こそが、〈近代〉の栄光と悲惨の双方をもたらした当のものであり、AI/ITテクノロジーもまたその延長にあると思われるからだ。AI/ITテクノロジーと〈近代〉テクノロジーの間に引く「/」の根拠は、自明ではない。

 落合自身、「デジタルネイチャーは、〈近代以前〉の多様性が、〈近代以降〉の効率性や合理性を保ったまま、コンピュータの支援によって実現される世界だ」と言っている。そして次のように続けるとき、ぼくは先の疑問符を更に大きくする。

 “そこでの人びとの生き方は、ベーシックインカム(BI)的か、あるいはベンチャーキャピタル(VC)的かに分かれていくだろう。つまり、AIによる補完(多様化オートメーション)をはじめとするテクノロジーの発展で生産力が飛躍的に増大した結果、多くの社会で何らかの形でのBIもしくはそれに近い資本の再配分か金融商品の分配、問題解決に際しての資本へのアクセス性の簡略化が実現するということだ”

 またしても、AI/ITによる「生産力の飛躍的な増大」の結果、多くの人が「ベーシックインカム(BI)的な生き方」ができるようになるという「楽観論」だ。そしてそうした多くの人たちの対極には「ベンチャーキャピタル(VC)的な生き方」をする少数のエリートがいる。落合のいう「〈近代以前〉の多様性」は、「〈近代以前〉の身分社会」と聞こえる。そこに戻ることが一体、真の「〈近代〉の乗り越え」であり、目指すべきユートピアなのか?

 落合は〈近代〉を牽引した思想の行き詰まりを、言語の不完全性に見る。そして、噴出するさまざまな問題の解決は、ぼくたちには想像できない速度で計算を進めるコンピュータの判断に委ねよ、という。ぼくたちはわけもわからず、AIの指示を受け入れることが正しいとされるのである。これでは、一部エリートが「労働者」を主導することが正しい道と信じ、粛清によって多くの犠牲者を生み出しながらその道をひた走りついには崩壊したソ連官僚主義とどこが違うのか?

 そもそも、落合の議論・構想には言語不要論が伴うという点で既に、ぼくにはついていけない。ぼくたちが扱っている書物は、ほぼ言語のみを、その武器としているからだ(落合もまた、書物によって自らの思考を広く伝搬している)。

 落合陽一が、敵に回すには間違いなく手強い相手であることは確かだ。東京大学大学院情報学環・学際情報学府博士課程を修了し、現在筑波大学デジタルネイチャー推進戦略研究基盤基盤長、筑波大学准教授および学長補佐を務める。一方で、ピクシーダストテクノロジーズ株式会社CEOを務める経営者にして、デジタルテクノロジーを駆使した現代アートを創り出すメディアアーティストである。

 言語の不完全性を言いながら、俳句にも詳しいし、白川静を読み、明治の翻訳語を研究するなど、漢字・漢語についての造詣も深い。研究、経営、創作活動、知識、それらのいずれにおいても、ぼくは到底太刀打ちできない。落合を批判するには、まず落合の諸著作に学ばねばならない。「積ん読」にしておけない本が、また増えてしまった。

F・G・ユンガーが予言したAI/ITの支配

 「〈テクノロジー〉の側面から〈近代〉を乗り越える」ことを目指す落合と対極的に、フリードリヒ・ゲオルク・ユンガーは、『技術の完成』(今井敦、桐原隆弘、中島邦雄監訳、F・G・ユンガー研究会訳、人文書院)で、テクノロジー=技術そのものに批判的・否定的な目を向ける。

 ユンガーによれば、技術の本質は、収奪である。

 技術は大地を情け容赦なく自らに従わせ、資源を機械システムの中に無理やり押し込める。技術は、多くの人がそう信じているように「豊かさ」を生み出すものでは、決してない。技術が「生産」と呼ぶものは、資源を掘り起こして目的に即した形に加工することだからだ。技術の進歩は、地球規模で組織化された収奪を結果し、損失経済はもはや持ち堪えられない規模にまで至る。

 『技術の完成』が書かれたのは20世紀半ばであり、二度の世界大戦と原子爆弾の登場の時代である。テクノロジーの脅威は、現代以上に目に見えるかたちで眼前にあったかもしれない。だが、「完成の域に達したときに技術がこれまでなかったほど包括的かつ強力に収奪する」とユンガーが予言する「未来」を、今現にぼくたちは生きているのではないか?

 “放射線はすべてを汚染する。この汚染は、今日明日のみならず、何千年もつづく。放射性廃棄物が置かれたところは、人間が住むことのできない土地となったのである”

 ユンガーが描く風景は、半世紀以上前のものではない。「3・12」を経験したわれわれは、その風景を、今再び原子爆弾投下の時代と共有しているのだ。

 本書の糾弾は、そうした、現代のエコロジーの先駆に留まらない。

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