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マッカーサーが39年ぶりの東京へ

 1945(昭和20)年9月8日、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは、陸軍第8軍司令官ロバート・アイケルバーガー、後にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)民生局長を務めたコートニー・ホイットニーと共に、横浜のグランドホテルから焼け野原の東京に向かった。

 午前中は、アメリカ大使館に星条旗が掲げられ、進駐式が行われた。この星条旗は真珠湾攻撃の日、ワシントンの米国議会議事堂に翻っていたといういわくつきの旗だった。占領者たちは、4年前の「だまし討ち」の開戦とその屈辱の記憶を極東の地へ携えてきたのである。

米大使館での国旗掲揚式で、星条旗に敬礼する総司令官のダグラス・マッカーサー元帥拡大米大使館での国旗掲揚式で敬礼する連合国最高司令官のダグラス・マッカーサー

 その日、一行は帝国ホテルでランチを摂ることになっていたが、正午まで少し時間があったため、社長の犬丸徹三に短時間の東京案内を要請した。マッカーサーと参謀長のリチャード・サザーランドを乗せた自動車は、丸の内から銀座へ向かい、本郷の東京大学、後楽園球場、神田の古本屋街を巡り、宮城前へ出た。マッカーサーにとっては、1906(明治39)年初夏以来、39年ぶりの(しかも変わり果てた)東京だった。

 約40分後、帝国ホテルへ戻ったマッカーサーは、ランチを済ませると、既に部下に下検分させてあった第一相互(生命)ビルを訪問した。候補にはここと明治生命ビルの二つが挙げられていたものの、マッカーサーは白い花崗岩を使った太い角柱の玄関からロビーへ足を踏み入れた瞬間、この建物こそ我が拠点にふさわしいと直観したらしい。「これはいい」と彼は言葉を発し、もう一つの候補先を見ることはなかったという。

GHQに接収された東京・有楽町の第一生命ビル=1951年4月撮影拡大GHQが接収した東京・有楽町の第一相互(生命)ビル=1951年4月撮影

新しい支配者に伝えた最初のメッセージ

 第一相互(生命)ビルは9月15日にGHQに引き渡され、9月17日にはマッカーサーに率いられた占領業務の執行者たちを迎えた。昭和天皇の側近たちは、堀の向こうのビルに翻る星条旗に目をやりながら、勝者のリーダーが敗者のリーダーにどのような態度で臨んでくるのか、敗者の側はそれにいかなる対応を行うべきか思い悩んでいた。

 2週間前の9月2日、戦艦ミズーリの艦上で行われた降伏調印式で、外務省情報局の加瀬俊一は、マッカーサーの「自由と正義と寛容」を謳う演説を聞いて感激し、その日のうちに重光葵(まもる)外相に託して天皇に奏上していた。これをきっかけに側近の間では、「責任を認めることによってむしろ罪は許されるに違いない」(袖井林二郎『マッカーサーの二千日』、1974)という期待感が生まれたという。

 しかし、こうした楽観的な観測に反対する意見もあった。中でも強く異を唱えたのは重光である。彼は9月3日にマッカーサーに面会、軍票使用中止の申し入れと併せて天皇を戴く間接統治の有効性を訴えていた。おそらく重光は「過去の指導者」が率先して責任を負えば、皇室に累が及ばずに済むという認識を持っていた。ゆえに重光は、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)首相や近衛文麿副総理がマッカーサーや外国人記者と会見するのを「媚態」と批判した。もちろん天皇による同様の行動も慎むべきことだった。「若し夫れ、陛下御自身真珠湾攻撃に責なきことを公然言明せらるるに至らば、国体の擁護は国内より崩壊をみるに至らん」(『続重光葵手記』、1988)という重光の言葉は厳しい状況認識に基づいていた。

 ところが事態は彼の意図に反する方へ動く。9月17日、戦争責任者を一掃する内閣大改造を提案して孤立した重光は、辞任を選ばざるをえなかった。後任は吉田茂であった。

 政府と宮中はほぼ同時に動き始めた。申し合わせたわけではないが、吉田新外相と藤田尚徳(ひさのり)侍従長は同じ9月20日にGHQを訪れ、マッカーサーと会見している。

 この日、藤田がGHQを訪ねると来客中としてしばしの待機を申し渡された。天皇の使者を待たせるとは何事かと思っていると、目の前のエレベーターから吉田が現れ、藤田に気づかないままに通り過ぎていった。

 両者の訪問の意味はもちろん異なる。表向きは、吉田の方が「打診」、藤田の方は「表敬」である。昭和天皇のマッカーサー訪問という歴史的出来事の実現に向けて両者は多少の連絡を取り合っていただろうが、宮中があえて「表敬」を行ったのは、(藤田が手記に書いたような健康や天候の挨拶ではなく)昭和天皇自身の意思を直接マッカーサーに伝えるためだったはずだ。「意思」とはポツダム宣言を忠実に実行するという約束以外の何物でもない。これは、敗れたとはいえ天皇こそ国家意志の当体であることを、新しい支配者に伝えた最初のメッセージだったのではないか。

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筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立。企業の組織・コミュニケーション課題などのコンサルティングを行なうとともに、戦後史を中心に、<社会意識>の変容を考察している。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師、国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『「若者」の時代』(トランスビュー、2015)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)など。

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