悲惨な戦争を風化させることなく、次の世代に伝えなければ……。平成最後の思い
2019年01月27日
“NHKの視聴率男”の異名をとった元名物アナウンサー、鈴木健二さん(90)が、戦争体験やNHK時代の思い出を綴った『昭和からの遺言』(幻冬舎)を出版した。平成が終わり、新たな時代が幕を開けるこの時期にこそ、「悲惨な戦争を風化させることなく、次の世代に体験を伝えなければならない」とペンをとった。
国鉄両国駅に近い本所・亀沢町で、自転車部品の製造販売業を営んでいた両親と3人暮らしだった鈴木さんは、空襲のまっただ中で、地獄のような惨状を目のあたりにする。「全身火だるまになって悲鳴を上げている人、赤ちゃんを胸に抱いたまま息絶えているお母さん、男女の区別もつかないほど黒こげになった死体…本当に目を覆うばかりの酷い光景でした」
鈴木さんは当時、旧制中学の卒業を間近に控えた16歳。6つ上の兄(映画監督の鈴木清順さん=2017年、93歳で死去)は学徒出陣で南方へ行ったまま、消息さえ分からない。四方八方から吹きつける悪魔のような熱風から逃れながら、父と、心臓に持病がある母を支え、必死で両国駅までたどり着く。
一家3人は停めてあった客車の中に隠れて九死に一生を得た。「翌朝、私が通っていた小学校の校庭を見ると犠牲者でいっぱい。自宅兼工場は跡形もなく焼け落ち、一切を失いました」と振り返る。
鈴木さんは、この大空襲で多くの同級生を亡くした。志願して戦場に散った若者や、沖縄戦で亡くなった「ひめゆり学徒隊」の少女たちの中には同世代も多い。南方のジャングルやシベリアの凍土にはいまも100万人を超える戦死者の遺骨が残されたままだ。
だからこそ、「戦闘は終わったけれど、戦争はいまだに終わっていない」という思いが強い。「終戦」ではなく、「敗戦」の言葉にこだわるのもそのためだ。
「私は、人間にとって何より大事なのは『お母さん』と『ふるさと』だと思う。戦争で犠牲になった同世代の若者たちを故郷の母親のもとへ帰してあげたい。天皇陛下が海外の戦地跡を訪ねられて一片の遺骨でもいいから持ち帰り、遺族にお渡しする。そのときこそが本当に戦争が終わるときだと思います。次の天皇陛下にもぜひ、この思いを引き継いでいただきたい」と力を込める。
NHK入局は、テレビ放送が始まる1年前の1952(昭和27)年。学生時代は、本の虫でラジオを聞いたことさえなく、アナウンサーがどんな仕事なのかも知らなかった。
「偶然、街で出会った中学(旧制)の同級生がNHKを受けるというので、一緒に願書を出したのです。締め切りの5分前でした」と苦笑する。
流行語にもなった「私に1分間時間をください」は、1984(昭和59)年大みそかの紅白歌合戦での出来事だ。引退が決まっていた都はるみに、この「決めゼリフ」でアンコールを見事説得。一時、60%台にまで下がった視聴率はこの年、78.1%へV字回復を果たす。まさに〝視聴率男〟の面目躍如である。
鈴木さんが「36年間のアナウンサー生活で最高かつ唯一の仕事」というのが、実は“沈黙のアナウンス”だ。
1969年、米アポロ宇宙船の月面着陸の中継シーン。歴史的瞬間に鈴木さんは、あえてまったく言葉をはさまず、お茶の間には、アームストロング船長の声だけが流れた。何というかっこよさ、光るセンスと言えようか。
活躍は本職だけではない。『気くばりのすすめ』や『男は何をなすべきか』などの著書は、軒並みミリオンセラー。書いた本はNHK時代だけで70冊に及ぶ。「人の5倍働き、昼食が食べられるのは週に1回程度というモーレツな忙しさ」が続き、昭和の終わりが近づいた1988年にNHKを定年退局する。
このとき、「送別会もなく、ひとりの見送りもなかった。結局、私は(NHKで)友だちさえおらず、人のために役に立つことを何一つしなかったことを思い知らされました」と話す。
こうした思いが、定年を迎えた鈴木さんに、思い切った人生の選択をさせることになる。
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