2019年01月23日
昭和天皇がマッカーサーを訪ねたのは、炎暑がややおさまった9月27日である。アメリカ大使館に着いたのは午前10時、共奉したのは、石渡壮太郎宮内大臣、藤田尚徳(ひさのり)侍従長などわずか7名だった。一方大使館玄関で迎えたのは、軍事秘書ボナー・F・フェラーズと副官のフォービアン・バワーズ。二人が一行を館内に招き入れると、次室でマッカーサーが出迎えて握手を交わし、会見室へ天皇を案内した。会見には、通訳の奥村勝蔵だけが従った。写真撮影はこのタイミングで行われたのである。
後年紹介・公開された奥村の「会見記」によれば、対話は次のようなものだった。
まずマッカーサーは世間話を始めるように、「写真屋というのは妙なものでパチパチ撮りますが、1枚か2枚しかできてきません」と口火を切った。それに対し天皇は「永い間熱帯の戦線に居られ御健康は如何ですか」とやや儀礼的な挨拶を述べた。マッカーサーは慇懃に応じたが、奥村に“Tell the Emperor”と強い口調で切り出した後、約20分にわたって滔々と現代の戦争の過酷と絶望を語り、天皇の決断で戦争による犠牲を軽減しえたことを称え、しかし世界の世論が新聞を前面に立てて天皇の戦争責任を問うていると続け、この最大の問題について天皇はどう考えるかと水を向けた。
ここで訪問者の方がようやく語り出す。
まず天皇は、戦争を回避しえなかったことを遺憾とする旨を述べた。するとマッカーサーはその苦難に理解を示し、「最後の判断は陛下も自分も世を去った後、後世の歴史家及び世論によって下されるのを待つほかない」と悲劇役者のような科白を口にする。
つぎに天皇が新日本の建設とポツダム宣言の履行を約束すると、相手は天皇の統率力を高く評価した上で、「陛下ほど日本を知り日本国民を知る者は他にいない」から、意見や助言があればぜひ知らせてほしいと懇請した。
天皇は相手の好意的な言動に気を良くしたのか、マッカーサーこそ東亜復興と世界平和を実現する者と持ち上げるが、相手は自分などただの「出先」に過ぎぬと謙遜してみせた。二人の会話は、しばしば短い沈黙をはさみ、決して闊達ではなかったかもしれないが、賛辞を投げ合う中で、次第に熱を帯びていったのだろう。
天皇が不祥事なく進んでいる占領行動に満足の意を示すと、マッカーサーは荒ぶる将兵たちの実態を告げつつ、暴行事件を最少化する努力を約した。この後若干の雑談を交わして天皇はいとまを告げ、マッカーサーは再び天皇の意見や助言にこたえたい旨を述べて玄関まで見送りに立つ。奥村によれば37分間の会見だった。
よく知られているように、1975(昭和50)年に奥村の「会見録」が現れるまで、昭和天皇とマッカーサーの第1回会見の詳細な内容は明かされていなかった。両人が守秘の約束を交わしていたのは、その場で占領政策の重要なテーマが話し合われていたからである。
もちろん公になった「例外」はいくつかある。中でももっとも大きな影響を与えたのは、秘密を守るべき当事者の一人、
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