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[書評]『ただの文士――父、堀田善衞のこと』

堀田百合子 著

西 浩孝 編集者

人間と向き合うことに情熱を傾けた文士の背中

 昨年(2018年)は、日本の戦後文学を代表する作家のひとり、堀田善衞(1918―1998)の生誕100年・没後20年で、『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』(集英社新書)『中野重治・堀田善衞 往復書簡 1953-1979』(影書房)、そして本書と、関連書籍の刊行が相次いだ。堀田の作品は、『インドで考えたこと』(岩波新書)『方丈記私記』(筑摩;書房/ちくま文庫)などがロングセラーとして現在も読み継がれており、いつかこれらを手にして感銘を受けたという人が少なくないだろう。また映画監督の宮崎駿氏は「お前の映画は何に影響されたのかと言われたら、堀田善衞と答えるしかありません」と言っていて(『堀田善衞を読む』)、スタジオジブリのアニメを通して堀田の存在を知った人は、あるいは多いかもしれない。私はといえば、堀田と同じ土地の生まれということもあり(富山県高岡市伏木)、思い入れのある作家だ。

『ただの文士――父、堀田善衞のこと』(堀田百合子 著 岩波書店)定価:本体1900円+税『ただの文士――父、堀田善衞のこと』(堀田百合子 著 岩波書店) 定価:本体1900円+税
 本書は、堀田の娘である著者が、父と過ごした日々を、ゆったりと、清潔な文章でつづったものである。家族にしか見せることのなかったであろう文士の知られざる姿が存分に描かれている。

 目次を挙げておこう。「サルトルさんの墓」「芥川賞と火事」「モスラの子と脱走兵」「ゴヤさんと武田先生の死」「スペインへの回想航海」「アンドリンでの再起」「埃のプラド美術館」「夢と現実のグラナダ」「バルセロナの定家さん」「半ばお別れ」。

 1950年代から90年代末まで、記憶の引き出しから順を追って思い出を取り出すその手つきは優しく、静かで、大切に大切にしまわれていたものだと感じさせる。たとえば、こんなところである。

トントン、トントントン。不連続な音が切れ目なく続きます。ああ、父が起きていると思いつつ、再び眠りについたものでした。トントントンは万年筆の音です。万年筆を垂直に立てて、原稿用紙に一文字ずつ文字を書いている音なのです。音が止まったときは、お茶を飲んでいるか、煙草を吸っているか、資料をめくっているとき。子守歌とは言わないまでも、隣の部屋で眠っている私にとっては安堵できる音であり、物書きを生業としている家の、深夜の小さな騒音でもありました。

 堀田は筆圧が強かった。執筆は「田植え」にたとえていたという。翌朝、娘が朝食を食べているテーブルの隅で、仕事を終えた父は朝刊を読みながら寝酒を飲む。娘「行ってきます」、父「ああ、お休み」。夕方、娘「ただいま」、父は「やあ、おはよう」。これが普段の風景だった。

 堀田の代表作のひとつ、大作『ゴヤ』(全4巻、新潮社/集英社文庫)執筆のときの様子はこんなふうだ。『朝日ジャーナル』連載中の4年間、書斎の机は横に後ろにと2台増えた。机の横にはカードケース。資料を探し、読み、そこから、年、地名、作品名、人名などのカードを作り、自分流の索引で整理していた。画集は重く、手首を痛めた。ゴヤの耳が聞こえなくなったとき、一日中耳栓をして、みずから実験をした。ゴヤの動向はそのまま、家族に逐一報告された。

ゴヤがああした、ゴヤがこうした、ゴヤの耳が聞こえなくなった、アルバ公爵夫人が死んだ、等々、父は毎晩書斎から戻ってきて、一杯飲みながら、その日のゴヤさんについて話し続けます。毎晩、ゴヤの動向を聞かされ続けている母と私、ついにゴヤさんは隣のおじさんになってしまったのです。(中略)
1976年8月18日深夜0時30分、「ゴヤⅣ」原稿終了(母の家計簿より)。父は書斎から飛び出してきました。
「ゴヤが死んだぞ!」
父の眼から泪が流れていました。

 ゴヤの文献を集めはじめ、スペイン語の自習を始めたのは1950年代後半から。生地・フエンデトードス村は1965年の時点で訪ね、戸籍を調べ(1937年の内戦で焼失していた)、村の教会に残っていたゴヤの洗礼の証明書の写しをたずねあてた。プラド美術館には10年以上にわたって通いつめ、1枚の作品を求めてヨーロッパの各地、アメリカまで、何度も何度も出かけた。堀田は長い歳月をかけてゴヤの生涯を経験したのである。

 こんなふうだから、その経験に同伴する家族の苦労も並大抵ではなかった。締め切りに合わせた生活サイクル、食事も外出も原稿次第。70歳、次作をモンテーニュに定めるとなれば、ラテン語の勉強から始める堀田だった。ゴヤは82歳、藤原定家(『定家明月記私抄』新潮社/ちくま学芸文庫)は80歳まで生きた。作家の妻・れいは確かめる。

「モンテーニュさん、いくつで死ぬの?」
父は答えます。
「59歳だ」
母は、長生きの主人公には、もうこりごりなのです。

 資料の読解や執筆が思うようにはかどらず、機嫌の悪いときも、二人はただただ、黙って見守った。

 同伴者といえば、作家としての堀田を担当した編集者のことも紹介されている。出版記念パーティなどしたことのなかった堀田だが、1994年10月、「堀田善衞全集完結の会」を開いた。挨拶では、それまで世話になった者、執筆を支えた編集者ひとりひとりに言葉を尽くして礼を述べたという。著者にとってもなつかしいという、父を支えた人びとの名前が記される。堀田が編集者をいかに大事に思っていたか。「作品の善し悪しは、編集者の善し悪しで半分方決まる!」とも言っていたらしい。

 もちろん、他の文士との交流も描かれている。吉祥寺の埴谷雄高邸で開かれていたダンスパーティから始まったという埴谷、武田泰淳らとの「あさって会」という集いは、家族ぐるみの付き合いだった。「文学をタテ、ヨコ、ナナメに、それぞれが勝手にしゃべり、それぞれの栄養にしていき、多少の論争はあったのかもしれませんが、大事になることもなく、喧嘩もなく、続いていったのです」。この時代、こうした交わりがあったのだ。著者の眼から描かれる彼らの横顔も本書を読む楽しみのひとつである。

 堀田が、家庭でも、原稿のなかでも繰り返した言葉を、著者は銘記する。

しかし、人間は信頼に値するものだ、と私は信ずる。我々の「現状」がどのようなものであれ、またその「現状」でもって10年先までも規制しようと、あくまで規制されがたいものが人間にはある、と信ずるからである。それは、歴史の筋を通したいという、やみがたい希望から発する、異常さを是正したいという倫理的、人間的な欲求である。(堀田「不安の時代」『歴史と運命』講談社)

 政治だろうが、経済だろうが、芸術だろうが、わかろうが、わかるまいが、とにかく話し続けたという父。妻と娘をはじめ信頼する人びととの絆に支えられながら、歴史の壁も言語の壁もものともせず、ただひたすらに人間と向き合うことに情熱を傾けた文士の背中が浮かんでくる。

 80歳で亡くなる間際まで書き続けた堀田善衞。本書を閉じれば、ふたたびその作品が読みたくなる。 

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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