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[書評]『ピーポー&メー』

戸川純 著

渡部朝香 出版社社員

死者を召喚して届ける言葉

 戸川純の書くものを読んだのは、それが初めてだった。

 2016年5月、蜷川幸雄が亡くなった。しばらくして、戸川純による追悼文がWEB版「ele-king」に掲載された。そこにはアングラから商業演劇に転じた蜷川幸雄が、自責の念の果てに覚悟を思い定めるに至った衝撃的な逸話が紹介されていた。

 だが、なにより、蜷川幸雄が自分(戸川純)をいかに評価していたかが衒いなく書かれていることによって彼への理解が深まる、稀有な追悼文だった。歌手・女優、そして書き手としての戸川純の知性を強烈に感じた。

 戸川純がブラウン管のなかで時代のミューズとして輝いていたのは、わたしには子どものころの記憶だ。ハルメンズやゲルニカ、名盤『玉姫様』……。いずれも聴いたのは10年近く遅れてのこと。タイムラグを経て接しても、はじめての身には新鮮で、可笑しさ、憧れ、畏怖などが入り混じった感情とともに、魅惑的な声に耽った。

 しかし、戸川純は一時代のミューズにとどまらなかった。ファンとまではいえないわたしにも、蜷川幸雄を偲んだ文章は、戸川純が深い思索に裏打ちされた現役のアーティストだと確信するに十分だった。その稀有な追悼文を含むエッセイ集が刊行された。

『ピーポー&メー』(戸川純 著 Pヴァイン)定価:本体2300円+税『ピーポー&メー』(戸川純 著 Pヴァイン) 定価:本体2300円+税
 「戸川純による、まるで短編小説のような人物列伝」というキャッチコピーの通り、10人の人物との交流をふりかえって描いた一冊だ。ふりかえったという言葉では、もの足りないかもしれない。すでに亡くなってしまった人。疎遠になってしまった人。いまここにいない人たちへの哀惜に満ちた言葉が並ぶ。

 たとえば、18歳の町田康(町田町蔵)が友達につれられて戸川純の部屋に遊びに来た、というエピソード。それだけでも、なんたる邂逅! とわくわくするが、顛末は切ない。町田康がかけた親愛の言葉に照れてしまった戸川純は、なにも返事ができず、無視したと町田康に受けとられてしまう。互いに優しい二人の、ちょっとした感情の行き違いが、不可逆な亀裂になってしまう残酷さ。その痛みを何年も胸に抱き、丁寧な言葉で回想する戸川純は、シャイで、ナイーブで、子どものころ彼女に受けた印象のままだ。

 一方、戸川純のナイーブさは世間によって増幅され、エキセントリックな偶像として独り歩きもしていた。彼女がパブリックイメージに苦しんだことも書かれている。彼女は遠藤ミチロウに「自分が若い女の子の人生に妙な影響を与えてしまったのではと怖くなった話をし」、「二人で『自分たちは好きなことを思い切りやっていただけのことで、決して非はないよ』とお互いをねぎらった」という。その表現によって高い評価と人気を得るのと同時に、さまざまな思いこみや心ない言葉に晒された彼女は、満身創痍になりながら闘ってきた人だった。

 この本を通してくっきりするのは、彼女が生来の感性だけで「存在感」「個性」を表わしていたのではないということだ。圧倒的に鋭敏な感覚と才能の持ち主であることはまちがいないが、戸川純は、プロとしての自覚をもとに、知性と努力と技術によって、歌をつくり、唄い、演技してきた人なのだ。

 「『女、子供はなめられるなあ』と思わずにはいられないことは、本当に多かった。わたしが屈強そうなガタイの良い男だったら、こんなめにはあわないだろう、ということだらけだったのだ、仕事以外は」「仕事では差別はなかった。女だからと甘やかされない分、差別もないのだ」

 プロとして仕事をしていれば、対等とみなされる。久世光彦の厳しい演出の要求に生傷の絶えない現場で応え続けた経験が詳述されているが、そこでの戸川純は、演技に貪欲な誇り高き女優だ。「男の人も傷つきやすい人は傷つくしタフな人はタフだろうし、女の人も同じじゃないですか」とバラエティで発言したという戸川純は、女が女であることによって舐められる世の中にあって、女を徹底的に演じる仕事に身を投じながら、その二項対立の先を見つめていたのかと思う。

 「わたしは、ハングリーなものがなければロックやパンクは駄目、というなら、それは金銭的なことじゃなくてもいいのでは、と思った。精神的になんらかの飢えを持っていればいいのではないか、と」「退屈だぜ毎日よ/何にもすることがねえ/から〔81/2の曲「シティボーイ」〕が始まる、そのことが、育った家庭の水準うんぬんとは別に、わたしの心をいたいほど打つ」「わたしはよく浮世離れした女優と呼ばれていたが、それは女優には良いことだけど、浮世離れどころか、わたしなりの、わたしだけの、しかし紛うことなく現実を生きていることは(逃げ出そうとしたこともあったが)自覚しているのだ」

 こうした言葉からも、彼女が根源を問わずにはいられない表現者であることが伝わってくる。

 戸川純という人が現実をひたむきに生きていることをとりわけ感じたのは、バンドTACOのボーカルだったロリータ順子を書いた章だ。文章を平気でパクったり高額なプレゼントをリクエストするロリータ順子に戸川純はふりまわされるが、戸川純は世間の評価軸でロリータ順子をジャッジしたりはしない。自分の判断で問いただすべきは問いただし、言うべきは言う。だが、ロリータ順子は独特の距離感で戸川純を求めつづける。結果、一線を画した応対をせざるをえなくなり、微妙な関係のままに、ロリータ順子は急死する。その死を痛切に悼み、ロリータ順子の心のきれいさ、精神の飢えに思いを寄せる戸川純は、どこまでも深く、真にたいせつなものを見いだそうとしている。

 本は、書いた人が死んだのちも、その人の言葉を時間を超えて届けることができる。すでに死んだ人がいかにすばらしかったかも、誰かの手によって本に書かれることで、時間を超えて届けることができる。かつて巫女の扮装をして一世を風靡した戸川純は、この本でも、大事な人たちを召喚する巫女の役割を引き受けていると感じる。極私的な記憶を通して見つめた人物を、プロとして文章に宿らせて届ける、媒介者がそこにいる。戸川純によって書かれた人たちは、この本の中で、きっと、ずっと、鮮やかに息づき続けるのだろう。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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年間2万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。