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橋本治は「頭」より先に「体」がある人だった

私が経験した「些細だが大事なこと」。追悼の列に連なって黙祷を

今野哲男 編集者・ライター

1996年拡大1996年、東京・有楽町で

内田樹の過去の書評から

 彼の死後には、当然だが、マスコミの速報以外に、ネットにも多くの追悼の投稿が寄せられた。考えてみれば敵らしい敵がいなかった彼らしく(彼と同じ土俵で戦おう、戦えると考える人は、どのジャンルであれ日本にはおそらくいなかったからだろう)、少なくとも初日は、ほとんどが心のこもったファンからのゆかしい投稿で占められていた。

 中で、私は、橋本治が若いころからの変わらぬアイドルだと公言し、『橋本治と内田樹』(筑摩書房、現・ちくま文庫、2008年)という対談集を出している内田樹が、その日のうちに「内田樹研究室」という自身のブログに、「追悼・橋本治」というタイトルで、「その1」 (2019-01-29 20:29)「その2」 (2019-01-29 20:57)、「その3」 (2019-01-29 21:00)と、彼自身が過去に書いた橋本さんの本についての書評を3本、短いコメントをつけて矢継ぎ早にアップしたことに興味を惹かれた。とくに印象が深かったのは、「『橋本治という考え方』(朝日新聞出版、品切れ)についての書評ではないかと思うけれど、定かではない」という、おとぼけ気味の断り書きをつけて紹介された「説明する人―橋本治」というタイトルの書評にあった橋本治自身の次のことばだ。

橋本治が言った

 「私の場合、『よく分かんないからこの件で本を書こう』というのがとっても多い。分かって書くんじゃない。分かんないから書く。が分かることを欲していて、その体がメンドくさがりの頭に命令する―『分かれ』と」(太字は筆者)

 これを内田樹の書評はこう読み解いている。

 橋本さんは書く前に「言いたいこと」があるので書いているわけではない。自分が何を知っているのかを知るために書いているのである。
 だから、橋本さんの書くものは本質的に「説明」である。橋本さんの「」が橋本さんの「頭」にもわかるように、「あのね、これはね…」と噛んで含めるように説明しているのである。自分で自分に向かって説明しているのである。…(太字は筆者)

 そして、

 きちんとした説明をするためには、自分の主観的な判断を織り込まないだけでなく、「自分が知っていること」をとりあえず「かっこに入れる」ことができなければならない。自分の主観的判断を自制することのできる人は少なからず存在するが、「自分の知っていることを知らないことにする」という技術を駆使できる人は少ない。きわめて少ない。…

 と。そして、さらにこう続ける。

 『小林秀雄の恵み』(新潮社、2007年―筆者注)もそうだ。「小林秀雄がいて、小林秀雄が読まれた時代の、日本人の思考が知りたい」と思ってこの本を書き出した橋本さんは、それまでに小林秀雄の著作を『本居宣長』しか読んだことがなかった。この本を書いたときも小林秀雄について書かれた膨大な先行研究を橋本さんはたぶん一冊も読んでいないと思う。橋本さんは小林秀雄が日本文学史上にどういう意味をもつ存在であるかというようなことには興味がない。興味があるのは、書きつつある小林秀雄をリアルタイムで駆り立てていた「何か」に同調することだけである。書きつつある小林秀雄が見ていたもの、感じていたもの、とりわけ小林秀雄が小林秀雄自身に対して説明しようとしていたことを感知することに橋本さんはつよい興味を抱いた。
 橋本さんはそういう点ではたぶんいつも自身の「同類」を探しているのだと思う。自分の知らないことを自分自身に向かって説明することに長けた書き手。例えば、三島由紀夫はそういう書き手だった。…

 そして、再び言うのだ。2002年に小林秀雄賞を受けた『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(新潮社、現・新潮文庫)も、同じように、まず「体」の要求するところに従って、「頭」でもわかるように書かれていると…。

 私はこの意見にほぼ同意する。そして、こういう人は日本には稀だと思う。橋本さんは「頭」より先に「体」がある。「体」の直観(≒実存)が、「頭」(≒本質)に先立っているという徹底した実存を生きてきたのだ。

 そして彼は書いた。彼の実存そのままに。その優秀な頭に納得を与えるために。このメカニズムは、ほとんど巫女やシャーマン、あるいは優れた役者のものだと見える。役者は、予め頭で決めたことをなぞっている限り、「らしい演技」がいくら上手くできても、ついに跳ぶことはない。いま、どこに行くかがわからない「からっぽ」の状態に自分を追い込むことができて初めて、想像力豊かに、一からの飛躍ができるのだ。橋本治の書くものが、緻密な説明にもかかわらず、踊っているように感じられるのは、たぶんそのせいだと思う。

橋本治が行った

 さて、ここで「些細だが大事なこと」に話を戻そう。あれは1988年のこと。橋本さんは『桃尻語訳 枕草子』全3巻(河出書房新社、現・河出文庫)を刊行中の、その後の円熟期に向けて、仕事の幅を広げつつある時期だった。私は、志した芝居では食うことができず、せめて編集者として活路が開けないかと考えるうちに、偶然の悪戯で『翻訳の世界』誌(バベル・プレス―現在は廃刊)に入ることができた、少し年の行った駆け出しの編集者だった。

 専門雑誌だったが「翻訳を通して現代を考えるインターカルチャーマガジン」を旗印に、特集企画の切り口はかなり自由度が高く、個々の記事企画については言い出しっぺが担当するという暗黙の了解もあった。

 で、あるとき、その月のテーマは「訳文はダメになったか?」で行こうと決まって、持ち寄った個々の企画に、誰が言い出したのかは忘れたが、ともかく『桃尻語訳 枕草子』で翻訳の領野でも壮挙を成し遂げつつあった橋本治のインタビューを入れようということになり、その担当を任されることになった。たぶん、全共闘運動にからむイラストレーターだとばかり思っていたら、「桃尻娘」あり「少女漫画」ありで、最近は「編み物」の見方まで変えてしまいかねない橋本さんの、古典の現代語訳という例を見ないタイプの「勢い」について、我を忘れて熱弁を振るったせいだと思う――1983年に、彼本来の「説明する人」の力と、人に対する「優しさ」が二つながら横溢した『男の編み物 橋本治の手トリ足トリ』(河出書房新社、品切れ)という本が出ていた。

 しかし、編集部の空気に馴染んで企画会議では口が軽くなっていたとはいえ、外に対しては駆け出しそのものの状態だったものだから、まだ依頼の電話一つにも慣れておらず(今もって慣れてはいないけれども)、ともかく頭の中に即席の想定問答集を作り、手に汗を握って本人に電話をかけた。答えは「枕草子? いいよ」という、想定問答はいったい何だったのかと笑ってしまうほど簡単なものだった。

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筆者

今野哲男

今野哲男(こんの・てつお) 編集者・ライター

1953年生まれ。月刊『翻訳の世界』編集長を経てフリーに。「光文社古典新訳文庫」に創刊以来かかわり、また演劇体験をいかして『セレクション 竹内敏晴の「からだと思想」』全4巻(藤原書店)などを編集。著書に『竹内敏晴』(言視舎評伝選)、共著に森達也との『希望の国の少数異見』(言視舎)、インタビュアーとしての仕事に、鷲田清一『教養としての「死」を考える』、吉本隆明『生涯現役』(以上、洋泉社)、木村敏『臨床哲学の知』(言視舎)、竹内敏晴『レッスンする人』(藤原書店)、『生きることのレッスン』(トランスビュー)など。現・上智大学非常勤講師。