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岐阜県加茂郡古井町(現・美濃加茂市)の郡是(グンゼ)製糸美濃工場を訪れ、女性工員と笑顔で話をする昭和天皇拡大戦後巡幸で、岐阜県加茂郡古井町(現・美濃加茂市)の郡是(グンゼ)製糸美濃工場を訪れ、工員と話をする昭和天皇=1946年10月24日

焼跡のダブルファンタジー――昭和天皇は人々から“元気をもらった”

昭和天皇の巡幸が巻き起こした熱狂

 ジョン・ダワーは天皇の独特な身体性について、「他人を当惑させるほどのぎごちなさは、天皇が比類なく純粋で無垢な人間であるというイメージを強めた」と書いている。「苦痛を味わうことはわかっているのに、このような巡幸を喜ぶばかりか熱意をもって行ったことは、天皇は心から臣民に献身する君主であるという主張を強化することになった」(ダワー前掲書『敗北を抱きしめて』)。

 ピュアでイノセントな存在とは、生まれたままの子どものことである。昭和天皇は戦いに敗れた人々のケガレを払い、進駐軍のジープに踏みにじられた列島に清浄な世界を取り戻すためにやってきた「天子」と観念されたということだろうか。

 さらにダワーはこうも書く。「天皇の苦痛はまた、人々に罪の意識を抱かせることにもなった」。なぜなら、戦争終結まで日本人は国家の大義を推進する上で、どんな失敗でも天皇に謝罪すべきだと叩き込まれてきたから、「天皇の巡幸は、奇妙な形でこの自己批判と謝罪の大衆心理を蘇らせた」(ダワー前掲書)のである。やがてこれらの複合観念が天皇への敬意に生まれ変わったとすれば、「新しい様式の御巡幸」(入江相政前掲書『入江相政日記』)、「epoch-makingの行幸」(木下道雄前掲書『側近日誌』)はみごとな成功を収めたということになる。

 側近たちの記録をたどってみると、巡幸から帰った日の天皇は(疲労は並大抵ではなかっただろうが)ほぼ例外なく上機嫌である。今風の言葉を使うなら、天皇は人々から“元気をもらって”いる。そしてこの上機嫌には、見込んだものがその通りに実現したことからくる満足感さえうかがえはしないだろうか。

 豊下楢彦の緻密な研究によって、天皇がマッカーサーとの会見でたびたび政治的発言を行い、米軍の沖縄駐留を求める「沖縄メッセージ」を発するなど、「象徴天皇」の枠を逸脱する行動に出たことが解明されている。彼の究極の目的は天皇制の維持であって、「復興」や「平和」は(重視してはいただろうが)二義的だった。この行動原理に沿って、天皇は死に物狂いで状況を切り拓いていく。巡幸で遭遇した熱狂的支持はその最大の熱源だった。

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筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立。企業の組織・コミュニケーション課題などのコンサルティングを行なうとともに、戦後史を中心に、<社会意識>の変容を考察している。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師、国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『「若者」の時代』(トランスビュー、2015)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)など。

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