“遠い地”へと向かう行動力と感性はどうやって生まれたのか
2019年03月10日
安田菜津紀さんという存在を知ったのは、今から5年前、TBSのテレビ番組「サンデーモーニング」だった。老練のコメンテーターに混じり、若さが際立つ、真っ直ぐに人の目を見て整然と淀(よど)みなく語る可憐(かれん)な姿が印象的だった。この手のワイドショーのコメントには、思わず突っ込みたくなるのが常なのだが、彼女が語る言葉には「なるほどなあ」と頷いてしまう。
安田さんは現在31歳。東南アジア、中東、アフリカなど、世界のさまざまな戦争、災害、貧困の地に出向き、最も弱い立場にある子どもたちを取材。日本でも、東日本大震災以降の岩手県陸前高田市を中心に記録し続けるフォトジャーナリストだ。
彼女を戦地や被災地へと駆り立てるものは何なのか。彼女はどんな本を読んで大人になり、どうしてフォトジャーナリストになったのか――。そんなことどもを訊きたくて、読書会「少女は本を読んで大人になるPart2」にお呼びした。
安田さんが幼い頃、彼女のお母様は毎日10冊、月300冊の絵本を子どもたちに読み聞かせたそうだ。人をいじめる子、いじめられない子に育てたい、それには「絵本だ」と思ったという。ひとつの図書館で絵本を読みつくしてしまうと、次へ、また次へと図書館を巡る。
一日10冊というのは相当な数だ。読む方も、聞く方も相当な気力がいる。若い時には"やんちゃをしていた”というお母様は、子ども達が眠りそうになると、ドスのきいた声で子どもたちの目を覚まさせた、と安田さんは声音を真似しながら、ユーモアたっぷりに語ってくれた。
親子で一冊の本を同じ時間と場所で分かち合う、それがコミュニケーションの起点になる。月300冊の絵本の読み聞かせは、安田さんの人間としての核をつくったと言えるだろう。それはまた、子育てにおけるお母様の自負でもあった。
そんな読み聞かせの中で出会ったのが佐野洋子の『100万回生きたねこ』だった。初版が1977年。40年以上読み継がれているベストセラーだ。
――自ら誰を愛することもなく、100万回も生き死を繰り返していた1匹の猫が、白いメス猫と出会い、いつまでも共に生きたいと願う。やがて白い猫の死によって、別れのときが訪れる。猫もその後を追うように死ぬ。しかし決して生き返ることはなかった。
この絵本をお母様が初めて読み聞かせた時、安田さんは「なんでこんな悲しい絵本を借りてきたの」と珍しく泣いて怒ったそうだ。それにも関わらず、お母様は何度も繰り返し、この本を借りてきては読み聞かせたという。
幼い安田さんは、そこに描かれた愛と死をどう受けとめていいのかわからなかった。しかしお母様は、そこから大切な哲学を子どもたちに教えようとしたのだろう。「どうして生き返らなかったの?」という安田さんの問いに、お母様はその時々にいろいろな答え方をしたという。
安田さんがこの絵本の意味を初めて受け止めることができたのは、大切な家族を失った時だった。
中学時代に父と兄を立て続けに亡くし、安田さんは、人を愛することと失うこととは表裏一体だと知る。誰かと会えなくなる悲しみの深さは、愛の深さである。しかし、たとえ痛みを伴うとしても、愛と一緒に受け入れる。死と向き合うからこそ、生が輝く。そのことを安田さんはこの絵本から学び、父や兄の死を少しずつ受け入れていった。
しかし、中学2年生で父を、中学3年生で兄を亡くした時の安田さんの悲しみはあまりに深かった。「家族ってなんだろう」と問い続けた安田さんは16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアに行く。学校の先生の勧めだったが、自分とはまったく異なる環境の子どもたちと出会うことで、自分の中に渦巻く問いに答えが与えられるかもしれないとも思ったという。
カンボジアは30年近い内戦の傷跡が今も深く残る。それは、戦争は終わった後も人々を傷つけ続ける。そこで彼女が出会ったのが、「トラフィック・チルドレン」と呼ばれる「人身売買された子どもたち」だった。
自分以外に守るものがある人の強さ。
彼らとの出会いを通して、安田さんは「家族は、友だちは、自分のことをわかってくれない」と言う、自分のことしか見えていない、自分しか守るものがいない人の弱さに気づいていく。それは、「100万回生きたねこ」がなぜ生き返らなかったのか、という問いへの答えにも通ずる。
人として生きるために大切なことを教えてくれた彼らに何かを返したい。彼らからもらったたくさんのことを誰かと分かちあいたい。帰国した安田さんはそう思ったという。それが原点だった。
安田さんは自分が見てきたことを文章にし、出版社や新聞社に売り込んだ。高校生にしてジャーナリストへの道の第一歩を歩み始めたのだ。
同世代の人たちに自分が見て感じたことをどう伝えるか。関心をもたなかったものに関心を向けさせるにはどうしたらいいか。安田さんは「知りたい」という気持ちの最初の扉を開く写真の力に気づく。そして、写真の道へと進んでいく。
「ぼくがラーメンたべてるとき、となりでミケがあくびした。」
「となりでミケがあくびしたとき…。」
「となりのみっちゃんがチャンネルかえた。となりのみっちゃんがチャンネルかえたとき…。」
と次々と続いていく絵本は、やがて、「となりのまち」から「となりのくに」、アジアの農村、中東と思われる町、そして「そのまたやまのむこうのくに」で倒れている男の子の姿を映し出す。最後に「かぜがふいていた…。」という言葉とともに、窓枠の向こうにラーメンを食べている「ぼく」を背中から描き、窓から「遠い地」を見つめる猫の後ろ姿で終わる。
「私」という軸を拡げた延長線上に他者がいる。この絵本は、日常の中で小さなフックをつくり、想像力のてっぺんに少しずつ階段をかけていくためのヒントを与えてくれる、と安田さんは語った。
私が感嘆するのは、そのフックをかけていった先に現地へと向かう、安田さんの行動力と素直な感性だ。
この「と」こそが、1980年代に大学に入ってこの映画を観た私にとっての「切実」であった。当時の私は、他者の痛みを知ることの苦しみ以上に、「第三世界」(ベルリンの壁崩壊と共に、この言葉はほとんど聞かれなくなったが)と「私」をどうつなぐか、このふたつの世界の「往還」に悶々としていた。
現地から日本に帰ってくる時のギャップを、安田さんはどう感じ、乗り越えているのだろう。私の問いかけに、安田さんは力強く答えた。
「温度差は感じます。でも嘆いているだけではダメ。そこにどういう架け橋をつくるかが大切なのです」
「ここ」にいる自分を「自己否定」するのではなく、そこをどう超えていくか。「よそ」の地へとすっと入っていく、その清々しさ、しなやかさを、私は今の20代、30代の若い人達から感じる。
「三無主義世代」(無気力・無関心・無責任)と言われた私たちにとって、政治的関心、社会的関心を持つことは、カッコ悪いことだった。バブルが始まろうとする、あの頃、私は友人たちの前で、第三世界のことや社会的理不尽を語ることに気恥しさを覚えた。だから、若い世代が「社会の役に立つことをしたい」とさらりと言ってのけ、軽やかに社会的起業をしたりする姿に、羨ましさ以上に、頼もしさ、嬉しさを覚えるのだ。
心が痛い、何かしなければ、と思うその時、それが日本であるか、外国であるかは大きな意味をもたなくなってきている。東日本大震災のとき、私たちは遠い国の人たちから様々な支援を受けたではないか。だから、危険な地に向うジャーナリストに対する「日本人がわざわざ行く必要があるのか?」という問いは、とても虚しく響くのだ。
安田純平さんへの「自己責任」のバッシングについて、安田菜津紀さんは、「取材はもちろん自己責任だが、その言葉は『自業自得』に聞こえる」と語った。安田純平さんが命をかけて知ろう、伝えようとしたことではなく、どう拘束されていたか、自己責任論ばかりに関心が向かう日本のマスコミや世論のあり方には、疑問を禁じ得ない。
安田さんの写真からは、センセーショナルな報道では見えてこない、自ら声を届けることができない人たち一人ひとりの「置き去りにされた悲しみ」、そして命の輝きが伝わってくる。「100万回生きたねこ」が愛することの果てに知った、「誰かと会えなくなる悲しみの深さ」を知る人だからこそ、撮れる写真なのだと思う。
安田さんは、歩きながら、全身を使って、会場のひとりひとりに深みのあるよく通る声で語りかけた。その姿は圧倒的で、テレビで見る冷静な印象とはまったく違った。会場は静かに興奮していた。
私たちの読書会は30人を定員としており、参加者は通常は30~50代を中心に80代までと幅広いのだが、その日はそれに加えて10代が4人もいた。それはかつてなかったことだ。安田さんの仕事や生き方に関心をもつ若い人たちが増えていると感じた。
そんな若い人たちの存在が、私たちの世代をも変えつつある。それもまた、ひとつの希望であると思うのだ。
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次回の読書会は、ゲストに映画監督の石山友美さんをお迎えして、4月18日(木)19時よりクラブヒルサイドサロン(代官山)で開催します。テーマは「小説と映画からみる「悪女」について」。取り上げる本は、松本清張『ゼロの焦点』(新潮文庫)です。
ご参加をお待ちしています。
http://hillsideterrace.com/events/6840/
(撮影:吉永考宏)
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