
ドイツ・ベルリンのホロコースト記念碑。地下には、ユダヤ人虐殺の事実を次世代に伝える展示教育施設がある
形式は同じでも支払われたのは「経済協力」金にすぎない
ドイツを鏡にして、韓国人被害者に賠償を
前稿「ドイツを鏡にして、韓国人被害者に賠償を」で書いたように、ドイツ政府・企業は強制労働被害者に対しても賠償を行ってきた。これと対照的なのが日本である。日本政府は強制労働に関しても、日韓請求権協定を楯に、韓国政府も被徴用工も賠償請求権はないと主張してきた。だがドイツは、かならずしも「請求権」の有無いかんを問題とせずに実質的な賠償を行ってきた――これには前稿のポーランドの例などもふくめられる――のである(佐藤健生「『補償』への視点――ドイツの戦後補償を参考に」、『世界』1992年4月臨時増刊号所収、62-64頁)。
しかも、ドイツは相手国政府に賠償金を一括して支払い、被害者への実際の配分は同政府に委ねている。相手国の被害者個人に被害事実を申請させてそれを逐一検討・精査するといった官僚主義的な過程を経ていては、存命被害者に対する賠償(救済)がなしえない可能性が高いからである。そもそも、賃金未払いを含むかつての被害事実を克明に立証できる被害者が、いったいどこにいるというのか。特に過去の資料が廃棄されていれば、それは不可能に近い。だが日本政府が請求権交渉の場でたくらんだのが、まさにこれである。
ところで包括的な支払いという点では、ドイツがとった方式は、日韓請求権協定に基づいて行われた支払方式と類似しているように見える。つまり、締結交渉を通じて、「『経済協力』という名で(……)、請求内容を一つ一つ検討して金額を積み上げるのではなく、一括して三億ドル無償供与……が約束された」(山田昭次「日韓条約の今日の問題点」、『世界』、岩波書店、1990年4月臨時増刊号所収、54頁、強調杉田)からである。
だが問題は支払いの中身である。日本側は一貫して韓国政府および被徴用工国民の請求権を認めようとはせず、支払いは「経済協力」を意図したものであった。外務省の内部文書が示すように、締結交渉が半ばをすぎた頃(1960年)、日本政府は、「過去の償いということではなしに韓国の将来の経済に寄与するという趣旨ならば」一定額を支払うことに意義を認める、という方針を固めていた(太田修『日韓交渉――請求権問題の研究[新装新版]』クレイン、2015年、152頁)。だから3億ドルの無償供与とともに、2億ドルの有償供与、3億ドルの民間借款もなされたのである。

対日請求権問題などの妥結を図るために開かれた日韓外相会談。握手するのは、日本側・椎名悦三郎外相(左)と韓国側・李東元外務部長官=1965年3月、東京都千代田区の外務省
日本政府は、結局のところ冷戦下において、かつアメリカの経済援助が縮小され始めた時期に、韓国との間に「経済協定」を結んだだけであって、被害者の請求権を認めた「請求権協定」を結ぶことはついぞしなかった(そしてこれを経済的に劣位の立場に置かれた韓国側にのませた)のである。つまり、ここで実現した経済協力は、それ自体一定の利益――一面では経済的な(高崎宗司『検証 日韓会談』岩波新書、1996年、104頁)、他面では冷戦構造下での政治的な(同103頁)――を期した戦略援助であって、だからその背後にある思惑は、請求権承認の下にあるべき、植民地化に対する責任意識とは無縁である。