2019年03月18日
半藤一利によれば、『昭和天皇実録』には、「落涙」の記事は2カ所しかない。ひとつは、1912(大正元)年9月13日、乃木大将自刃の報を聞いたとき、もうひとつは、1945(昭和20)年11月30日、陸軍大臣下村定(さだむ)から軍隊の解散を上奏されたときであるという。祖父の明治天皇、父の大正天皇の崩御に際しても、「落涙」の事実は記されていない。
裕仁は1908(明治41)年4月に学習院初等科に入学した。学習院長には、軍事参事官であり現役の大将でもある乃木希典(まれすけ)が前年から就任していた。この院長人事には、3人の孫の教育を気にかける明治天皇の意向が強く働いていたという。
乃木は皇孫たちを預けられたことで発奮し、教育者の役割に人一倍打ち込んだ。全寮制に改め、規律を正し、学生の生活の細部に注意の目を向けた。自身もほとんど自宅へ帰らず、学習院に泊まり込んだという。学生たちの中には、乃木の厳めしい教育方針を疎んじる空気もあったが、裕仁は乃木を敬愛した。乃木の求めに応じて、赤坂の東宮御所から目白の学習院までどんな天気の日も徒歩で通い、祖父の遺言に従って「院長閣下」と呼んだ。
乃木が学習院長に就いた明治40年代前半、いわゆる「日露戦後」は奇妙な時代である。1908(明治41)年に発布された戊申詔書は、戦後に現れた驕慢奢侈の風を正し、節倹と勤労を強く説いた。世情は確かに弛緩の様相も呈していたが、それだけでもなかった。ポーツマス条約に憤激した民衆は日比谷で暴徒と化し、以後、米国の排日運動、韓国の抗日運動、東京市電値上げ反対運動、足尾・別子銅山の暴動、赤旗事件、伊藤博文の暗殺と権力者たちの意気を阻喪する出来事も相次いでいた。
中でも社会主義の勃興は、支配層にとってまさに新たな脅威だった。彼らの間には「ほとんどグロテスクなまでに、なにものかに怯えるような風潮がみちていた」と橋川文三は書いている(『昭和維新試論』、1984)。1910(明治43)年に開始された社会主義者の大量検挙と極刑判決は、その恐怖の反映だったのだ。この「大逆事件」は、権力の危機感を露呈した上に、死刑執行への慌ただしさによって、暴力を発動した側の根拠の薄弱も伝えてしまった。東京や大阪にはすでに都市文化の虚栄(と一方での凄惨)が出現していたが、大仰な弾圧はこれらに重ねて「ある寒々とした冷笑的な気分」(前掲書)を人々にもたらした。
そのようなシニシズムの中で、明治天皇の崩御があり、乃木の殉死が起きた。自刃の理由は本人の遺書によれば、西南戦争における軍旗喪失とされているが、日露戦争で6万人の将兵を死なせた自責の念が重くのしかかっていたことはいうまでもない。
勇名を馳せながらほぼ無能な軍人だった乃木の最期は、半ば嘲笑と揶揄を以て遇された。森鴎外は、同じ軍人として事後の対応に手を尽くし、その死を『興津弥五右衛門の遺書』(1912)で引き取ってみせたが、どちらかといえばこれは少数の例外である。
知識人の多くは、半ば呆れ顔で時代錯誤の珍事と見なした。白樺派の武者小路実篤や志賀直哉は、悪罵のような言葉を書きつけている。彼ら学習院から出た芸術派のグループは、院長の発する謹厳実直と質実剛健のオーラに生理的な嫌悪を感じていたからだ(雑誌『白樺』は学習院では禁書のひとつだった)。
ただし一方、市井の人々にとっては、乃木が明治という時代を反芻するための数少ない手がかりだったことも忘れてはならない。いわゆる「乃木伝説」の主題は、稗・そばの質素な食事や多くの兵を失った自責の念などさまざまだが、一貫しているのは「帝国日本」以前の「明治日本」の価値観、武士的で農本的な規範である。人々が“乃木的なもの”を懐かしみ愛おしむ気持ちは、明治天皇の乃木に対する気持ちにも通じていたようである。
おそらく“無能の人”乃木とは、「帝国日本」への不適応の事例である。日露戦後のシニシズムが都市中間層の「気分」だったとするなら、圧倒的多数の農民は乃木の不器用さの方に共感した。このふたつの感情が交じり合わぬまま、低く垂れ込む時代の中で、裕仁は皇太子になった。「大正」の行く方向は誰にもまだ分かっていなかった。
冷笑と共感は、漱石の『こころ』(1914)にも流れ込んでいる。「先生」の長文の手紙は「明治の精神」の終焉を語って名高いが、その語調には、漱石自身の人生と時代に対する微量のアイロニーも含まれているように思えてならない。たとえば「明治の精神が天皇に始まって天皇に終った」と感じた「先生」が、「最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは畢竟時勢遅れ」ではないかと気づいたというくだり。「時勢遅れ」の言葉つきに、嘲笑を薄く刷いた自己憐憫を感じるのは私だけだろうか。
さらに注意すべきは、そう語った相手の応対である。
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