2019年03月26日
「恋せよ」といわれると、「またかよ」とうんざりしてしまう。人間の生の充実を指し示す一方、秋元康を持ち出すまでもなく女性蔑視の発露になりがちなこのメッセージに対し、うっすらとした嫌悪感が生じてしまうのだ。それは、女性をとりまく差別や構造的な問題が「恋愛」のもとにうやむやにされるような、例えば、相手となんらかの問題が生じたとき、それらの背景や根ざしている社会構造は問われず、性格の不一致や感情によるものに回収されたり、蓋をされたり、美化されるのに似た感覚を覚えることにある。
自立した女性や自由に生きる女性を語るときに、「恋」は大きなキーワードだ。女性解放を体現した伊藤野枝をはじめ、「新しい女」は恋に走った。自分が好きになった男と好きなように生きることは破格の自由の象徴であり、主体的に生きる人間だという表現でもあっただろう。つまり恋することじたいが、闘いの一形態だったといえる。だがそれは女にとってだけなのだろうか。
映画『金子文子と朴烈(パクヨル)』(原題:박열、英題:Anarchist from the colony)。チェ・ヒソ演じる金子文子と、イ・ジェフン演じる朴烈の関係に、その答えを見つけるとは思ってもみなかった。
大日本帝国に生きる日本人だが無籍者である文子と、統治下の朝鮮から「内地」へとやってきた「不逞鮮人」とみずから称する朴烈。関東大震災後、朝鮮人大虐殺から目をそらす目的で検束され、大逆罪で死刑宣告された二人の鮮烈な生きざまを、事実にもとづきながらも演劇的な演出で描いたこの作品は、国家によって序列づけられた二人の闘いをつうじ、人間が対等であるとはなにかを問う。
実際、「朴と共に死ぬるなら、私は満足しよう」と大審院公判で発言したほどの大恋愛だ。しかし、本作品はそうした二人の恋愛プロセスには重きを置かない。本の山によってほとんど居場所が占有された部屋で、文子が共同生活の約束を提案し、笑顔で朴に血判(!)を迫るシーンが象徴的だ。
その一、同志として同棲すること。
その二、私が女性であるという観念を取り除くこと。
その三、一方が思想的に堕落して権力者と手を結んだ場合には、直ちに共同生活を解消すること。
まずここで観客であるわたしたちは、彼女がロマンチック・ラブ・イデオロギーの夢などカケラももっていないこと、二人の関係性の根幹はきわめて対等を意識したものだということを知らされる。朴は文子に少々戸惑いつつ血判を押すが、その表情は明るさを放っている。
感情的だともいわれている文子を、チェ・ヒソは伸びやかな表情で演じる。パンフレットに収録されたインタビューで、「表向きの強さの裏で、密かに傷ついている女性だとも思いました」と文子について語るチェ・ヒソだが、朴が文子を守るために隠しごとをしたと知ったときの表情といったら!
対等であることを求め、ようやく実現できたと思ったのに、理解されていなかったというショックと困惑と悲しみが顔からこんこんとわき出してくるようだ。しかし、涙で崩れた顔は一転、あきらめてなるものか、といわんばかりに、強いまなざし、ゆるがない頬、固いくちびるへとみるみる変わっていく。
ところで本作は韓国映画だが日本語の割合が高く、日本語字幕もだいぶ少ない。多用される
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