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[書評]『悩ましい国語辞典』

神永曉 著

小林章夫 帝京大学教授

言葉の悩ましさと面白さ

 学生時代に恩師から言われたことは、できることなら辞書編纂者の仕事だけは避けたほうがいい、労多くして得るものは少ないし、出来上がったものに対して色々と批判を受けることも覚悟しなければならないからだ、ということだった。確かにそうかもしれないと思って、辞書編纂の道に進むことはなかった。百科事典に近いものの執筆編纂に携わったことはあるけれど、言葉の辞典は自分には向かないと思っていた。筆者の場合は英文学を勉強してきたから、この場合は英和辞典である。

『悩ましい国語辞典』(神永曉 著 角川ソフィア文庫)定価:本体1800円+税『悩ましい国語辞典』(神永曉 著 角川ソフィア文庫) 定価:本体1080円+税
 本書はタイトルにある通り、国語辞典編集者の日本語をめぐるエッセイである。詳しく言えば、小学館で『日本国語大辞典』をはじめとする国語辞典の編集に40年近く携わってきた人物の手になるエッセイである。これまでにも、同種のエッセイを発表しているし、本書も数年前に単行本として出版されたもの。文庫本になったのを機に読んでみた。いや実は、引っ越しをして単行本が消えうせたために、今回懐かしく思って購入したのである。

 改めて読んでみるとやはりおもしろい。最近よく使われる「まじ!」という言葉が江戸時代の小説で使われていたなんて。「あばよ」の語源が「あばあば」という幼児語とは! 「固執」は「こしつ」と読むのが正しいと思っていたら、本来は「こしゅう」と読むと言われて、学生をしかりつけたことを恥じた。例を挙げていくときりがない。

 要するにこの著者の文章が巧みで面白いのである。実は自分とは真逆(この言葉についても344ページに説明あり)な世界で長年仕事をしてきた人物が、辞書編纂という地味な仕事を毎日しながら、ふっと息抜きをして遊んでいるような洒落た味わいが横溢していて、大いに読ませるのだ。これは恐らく珍しいことで、今までこの世界で長年生きてきた人の文章を読んで、あまり楽しかったことがなかったのである(失礼!)。「悩ましい」は「官能が刺激されて心が乱れる」かと思いきや、「苦悩」の意味で使うほうが古いというのだから、どうも悩ましい限り。

 こういう人物に国語を教えてもらえれば、ひょっとして国文学の世界に進んでいたかもしれないと思うけれど、いやいや英語英文学の世界にも面白いことがいくつもある。

 ほとんど独力で本格的な英語辞典を初めて編纂したジョンソン博士ことサミュエル・ジョンソン。この人物による言葉の定義が一風変わっている。「oat」は「カラスムギ」のことだが、そこでこう続けるのである。「イングランドでは馬が食べるが、スコットランドでは人間が食べる」。彼のスコットランド嫌いが現れたものだが、いつもジョンソンの傍を離れなかった弟子のボズウェルはすかさずこう言ったという。「だからイングランドでは馬が丈夫で、スコットランドでは人間が丈夫なのです」。ちなみにボズウェルはスコットランド生まれ。

 ジョンソンが古いというなら、世界でも有数の大辞典、『オクスフォード英語辞典』は英語の意味の変遷を歴史的に辿ったものだが、その編纂中に見事な例文、用例を送ってくる人物がいた。それが誰かと言えば刑務所に入っていた囚人だった(この逸話に関しても本書に言及あり)。暇をこのように使うのは有益だと思うが、この逸話の真偽のほどは不明。

 最後に一つ、近頃よく使われる「生きざま」なる言葉が大嫌いで筆者は使わないのだが(だって「死にざま」はあるけれど、「生きざま」は聞いたことがなかった)、これについて神永先生のご意見をうかがいたい。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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*三省堂書店×WEBRONZA  「神保町の匠」とは?
年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。