2019年03月28日
内田裕也逝去の報道が流れた際に感じたのは、「自分にはそのことについて、なにかを主張する資格はないだろう」ということだった。当然ながら交流があったわけでもなく、それ以前に、1962年生まれの私にとっての彼は少なからず「よくわからない人」だったからだ。
日劇ウエスタンカーニバルで歌手デビューしたという1959年にはまだ生まれていなかったし、1966年のザ・ビートルズ来日公演で前座を担当したと聞けば「すごいなぁ」とは思うものの、なにしろ4歳だったので記憶にはない。
それに彼には歌手としてのヒット曲、あるいは代表曲がないのだ。3月18日付の朝日新聞デジタルには「ロック歌手の内田裕也さん死去」という見出しがついていたが、現実的にソロ歌手としての実績はほぼないと言っていいのだ。
ネットニュースの記事中には「『シェキナベイベー』の名言も残した」という一文があったので苦笑してしまったが、それは「名言」ではないし、書くことがなかったのではないかと推測したくもなってしまった。
代わりに強烈な印象として残っているのは、樹木希林との不思議な関係、東京都知事選挙への立候補、大麻取締法違反による逮捕、交際女性への脅迫など「音楽以外」のことばかり。
しかも、率直に言って印象のよくないことのほうが多いため、「ロック界のレジェンド」と言われてもピンとこないのだ。素行の悪さをロックと紐づけることは不可能ではないのかもしれないが、さすがにそれはこじつけっぽい。
とはいえ決して、死者に鞭打ちたいわけではない。しかし内田裕也という人のことに触れるならば、まずはそのことを避けて通ることはできないと思うのである。
そこで、そのことについてゆっくりと考えてみたところ、ひとつの答えに行き着いた。それは、内田裕也のプロデューサーとしての才能だ。彼は基本的に出たがりだったと思うが、その半面、裏方として、とても優秀な才能を持っていたのである。
たとえばそのいい例が、1970年にデビュー・アルバムをリリースしたフラワー・トラベリン・バンド(以下FTB)での立ち位置だ。自身が結成したフラワーズを母体に持つこのバンドにおいて、彼はヴォーカリストを退き、プロデューサーを担当しているのである。
そうした立ち位置を選択した理由は、
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