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馬車で高輪東宮御所に向かう皇太子時代の昭和天皇に、警戒線を突破して「万歳」を叫ぶ群衆1921年9月3日拡大欧州訪問からの帰国後、馬車で高輪東宮御所に向かう皇太子時代の昭和天皇に、警戒線を突破して「万歳」を叫ぶ群衆=1921年9月3日

昭和天皇が体得した近代的所作としての発話

 “発声する皇太子”は、二重の意味合いを持ったと私は考えている。第一は、原が述べたように、身体に加えて声音を伴う皇太子の現前とこれに応じる観衆の歓呼によって、「君民一体」の政治空間が出現したことである。この意図的に演出された一体感は、新たな政治行動も生み出した。朝日や中岡から始まる「第二の維新」は、政府や宮中、または財界の要人など、天皇親政を妨げる者たちを排除し、臣民と天皇の「一体化」を求める運動だったとすれば、「大正10年」とはその始点だったのである。

 ただし、発話は皇太子にとって第二の意味もあったのではないかと私は考えている。欧州までの2カ月あまりの船旅で演説の特訓をこなした彼は、バッキンガム宮殿の晩餐会でみごとなスピーチデビューを飾っている。同席した吉田茂は、牧野伸顕宛書簡で「御声ノ郎々(ママ)タルハ皆一般ニ感得」(『吉田茂書翰』、1994)と書いてその感激を表している。

 おそらく皇太子にとって、発話とは欧州の市民社会が求める近代的身体所作として認識されたのではないか。皇太子に新鮮だったのは、「君民一体」の幻想の方ではなく、我と彼が「対話」を通して実現する合意形成だった。私はそれこそが、昭和天皇自身が体得し、大正から昭和へ持ち越していったモダニズムだったと考えている。

政治と祭祀の間で

 この年11月、裕仁皇太子は摂政に就任し、政務と軍務については天皇と同一の権能を持つことになった。ヨーロッパの社会とそこで生きる王室に触れたことで、彼の中には、欧米各国に並ぶ近代的立憲君主という自己イメージが兆していたに違いない。

裕仁皇太子と良子妃の新婚時代のポートレイト=1924年(大正13年)3月ごろ撮影。結婚後初めて発表されたお二人の写真拡大裕仁皇太子(当時)と良子妃の新婚時代のポートレイト=1924年(大正13年)3月ごろ。結婚後初めて発表されたお二人の写真
 久邇宮良子(くにのみやながこ、後の香淳皇后)との結婚を前に着手した女官制度の改革は、その意識の最初の表れだった。近代的な一夫一婦制を確立するには、一夫多妻の温床となる後宮は解体されるべきものと映じたのである。また、折に触れて親しんできたゴルフ、テニス、乗馬、ビリヤードなどの嗜(たしな)みにもますます熱が入った。こうした活動的なスポーツや遊興は、憧れの対象である英国王室を真似たい皇太子にとって、いずれも重要な嗜みだったのだ。

 ただし、こうしたモダニズムへの傾きを疎ましく見る目もあった。ひとつは軽佻浮薄の遊びに眉を顰(ひそ)める ・・・ログインして読む
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筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立。企業の組織・コミュニケーション課題などのコンサルティングを行なうとともに、戦後史を中心に、<社会意識>の変容を考察している。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師、国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『「若者」の時代』(トランスビュー、2015)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)など。

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