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皇居内の研究所で微生物「ヒドロゾア」を観察する昭和天皇。右は東大臨海実験所長で理学博士の富山一郎氏、1961年4月拡大皇居内の研究所で微生物「ヒドロゾア」を観察する昭和天皇。右は富山一郎・東大臨海実験所長=1961年4月

生物学と「二重性」の発見

 昭和天皇が大正リベラリズムという時代精神に感応し、自分なりの立憲君主像を目指したことは確かだが、その立場はひと色の政治思想で尽くせるほど単純なものではなかった。前稿で述べたように貞明皇后の「圧力」もあって、天皇は宮中祭祀により多くの時間を割くようになった。たとえば「旬祭」と呼ばれる月3回の祭祀には、すべて拝礼を行うようになった。それでも厳しい母は、形式だけにとどまって敬神の真実に乏しいと天皇を非難し、「真実神ヲ敬セザレバ必ズ神罰アルベシ」と言い放ち、周囲を凍りつかせた(『倉富勇三郎日記』、昭和28年10月20日、原武史『昭和天皇』より)。

 貞明皇后に代表される祭祀と敬神の思想は、青年君主が理想と考える西欧流政治思想とは異質のものだった。両者は真正面から衝突するようなものではなかったが、天皇に少なからぬ緊張を強いたことだろう。ただし、本人から懊悩の声は聞こえてこなかった。逆に祖父や父よりも多くの時間を祭祀に費やし、さらに離宮内苑の水田で田植えと稲刈りを行って収穫した米を新嘗祭で供えるといった積極的な行動に出る。つまり天皇は、二つの世界への帰属をあやしむことがなかった。あたかも両世界の間で宙吊りになったマリオネットのような姿を、自身のアイデンティティとして認めたようでもあった。

皇居内の水田で田植えをする昭和天皇1964年5月拡大皇居内の水田で田植えをする昭和天皇=1964年5月

 ただし「二重性」のバランスを維持するには、マインドセットの修正も必要だった。危うい均衡を保つ上で小さな足場となったのは生物学の世界だった。

 裕仁は、もともと動植物が好きな少年だった。幼少期には頻繁に上野動物園に通ったというし、昆虫に興味を持つようになると夢中で名前を覚えた。伊香保の山でオオムラサキを2匹つかまえたときは、弟の秩父宮と提灯行列をしたと語っている。

青島のジャングルで昆虫を採集する昭和天皇 19496拡大戦後巡幸の休養日に宮崎県青島のジャングルで昆虫を採集する昭和天皇=1949年6月
 生物学への関心は、本人によれば12歳のとき、塩原での野草の研究がきっかけだったらしい。また同じ頃、「昆虫と植物」とタイトルをつけた標本もつくっている。特定の植物の周囲に関係する昆虫を配した「生態標本」で、「自然を全体としてとらえようとされるナチュラリストの姿勢」を示していると毛利秀雄は書いている(『天皇家と生物学』、2015)。

 学習院の初等科を卒業した裕仁は、高輪の東宮仮御所内に設けられた東宮御学問所で学んだ。杉浦重剛(倫理学)、白鳥庫吉(歴史)など錚々たる教授陣の中で、博物学を担当したのが服部廣太郎(ひろたろう)である。菌類を専門とする服部は、後に赤坂離宮(現在の迎賓館)内に建設された生物学御研究所の御用掛を務めた。裕仁が終生の研究テーマとしたヒドロゾアは服部の示唆によるところが大きかった。

 ヒドロゾアは、刺胞動物門ヒドロ虫綱の総称である。刺胞動物門の動物の体制は固着するポリプと、浮遊するクラゲに分けられるが、ヒドロ虫綱の場合、この両者が世代交代をするものが多いという。大部分が海中に棲み、一部にはサンゴやイソギンチャクぐらい大きくなるものもあるが、ほとんどが小柄で目立たない。ポリプの時期は無性生殖で増殖し、無性的にクラゲを形成する。ところがこのクラゲは成長すると有性生殖を行い、受精卵は孵化後に定着してポリプとなる。


筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立。企業の組織・コミュニケーション課題などのコンサルティングを行なうとともに、戦後史を中心に、<社会意識>の変容を考察している。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師、国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『「若者」の時代』(トランスビュー、2015)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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