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父娘「準強かん」、異常な無罪判決と裁判官の無知

性的虐待被害者への想像力があまりに欠如していないか

杉田聡 帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)

女性の電話相談に乗るNPO「女のスペース・にいがた」のスタッフ=新潟市中央区女性の電話相談にのるNPOなど支援組織は各地にあるが、裁判官が女性に理解がなければ……(写真はイメージ)

 先日、強い酒で泥酔した女性に対する準強かん事犯に対し、福岡地裁で出された無罪判決について書いた。女性に関する内面化した神話を「経験則」と信じた裁判官による、異常な判決であると。

 ところがその後、今度は名古屋地裁岡崎支部で、実の娘に対する準強かん事犯に対し、再び無罪判決が出された(朝日新聞2019年4月6日付、判決日は3月26日)。今回の判決も、前回の判決に輪をかけて異常かつ無謀である。

 「準強かん」(現刑法では正確には準強制性交等)とは、被害者の「心神喪失」あるいは「抗拒不能」に乗じ、もしくは被害者をそうした状態に置いた上で、なされる強かんをさす(刑法178条第2項)。一般に「強かん」罪の構成要件とされてきた暴行または脅迫――実際はこれら、特に「暴行」がない事犯は多い――を欠くために「準」(次の位)という言葉がつくが、その悪質さ、量刑は強かんの場合と同様である。

なぜ「抗拒不能」だったのか――性的虐待・経済的依存

 準強かんにおいて薬物やアルコール等が「心神喪失」「抗拒不能」の原因となる例が多いようだが、原因は多様である。そのなかで、身分や地位による威圧は原因として排除するむきもあるが、「相手が自己に甚だしい不利益を及ぼしうる地位にあるばあい」は、かならずしもそうではない(団藤重光編『注釈刑法(4) 各則(2)』有斐閣、1965年、303頁)。

 特に今回のように、実の父親が、しかも長年にわたる暴力・性的虐待によって娘を支配下に置いてきた場合などは、これに相当すると考えるべきである。総じて性的虐待は一般の虐待と比べても表面に出にくいが(読売新聞大阪本社社会部『性犯罪報道――いま見つめるべき現実』中公文庫、2013年、121頁)、娘が直近の2回の強かんについてしか実父を訴えられなかったという事実は、加害者がいかに巧みに犯行を隠し、また被害者をあやつってきたかを示している。

 被害者は2度の強かん被害を受けたとき19歳だったというが(同記事)、一般に、それ以前の長きにわたる時期はもちろん、この歳になってさえ、経済的に親に依存していれば、親の犯行を表に出すのは困難なことが多い。総じて、まとまった収入がない若者が、親の家を出て行きづまるのは目に見えている。今回の被害者は、告訴時は最終的に支援者が得られたのであろうが、それまで長きにわたり孤立無援だった事実を想うと、人ごとながらいたたまれない。

 加害者が父親の場合は他の困難もともなう。性犯罪において、一般に加害者と被害者の年齢差は、被害者を抵抗困難な状況においこむ大きな要因の一つになる(杉田編著『逃げられない性犯罪被害者――無謀な最高裁判決』青弓社、2013年、110頁)。親子ほどの年齢差は、仮に加害者・被害者の間に実の親子関係がなかったとしても、被害者を威圧する権力として作用しうるが、これに実の親子関係、経済的依存、長年の性的虐待等が加われば、被害者は性的虐待・凌辱に抵抗できない。

問われるべきは行動の自由

 それにしても今回の判決は異常である。裁判官は性交に対して「娘の同意はなかった」と認定し、かつ被告は「長年にわたる性的虐待などで、被害者(娘)を精神的な支配下に置いていたといえる」と判断したにもかかわらず、しかしなぜそこから、「被害者の人格を完全に支配し……〔てい〕たとまでは認めがたい」などという判断が出てくるのか。

 ここでは前記の年齢差、特に親子関係にあった事実が、そして長年にわたって性的虐待が実際に行われてきた事実が、すっぽり忘れ去られている。検察によって立件されたのは2件の加害行為だけだったとしても、性的虐待の事実は背景として極めて重要である。特にこの事実があるからこそ、19歳になっても親の非道な人権侵害を拒めなかった可能性があるからだ(後述)。

 そもそも裁判官が言う「完全な支配」は、実世界にはありえないモデルにすぎない。そうしたモデルを問えば、それが現実に「認めがたい」と判断されるのは、ある意味であたりまえである。

 なぜなら人は、どんな場合であろうと意志の自由をもつからである。牢獄にいようが、牢獄もどきの家庭にいようが、そこから解放される夢を見うる。ナイフで脅されて行動を制約されようが、経済的に親に依存しているために言いなりになろうが、相手の要求・命令を無視して行動する夢を見うる。そうした意志の自由の可能性は、どんな場合でも否定できない。だから「完全な支配」はただの空想の産物にすぎない。

 にもかかわらず、父親が被害者を「完全に支配し……〔てい〕たとまでは認めがたい」という結論を導くとしたら、それは論理の飛躍である。問題は意志の自由いかんではなく、娘が、それまでの長年にわたる虐待の事実を前に、父親の要求・命令から現実に自由でありうるかどうか、つまり行動の自由があったかどうかである。

 意志の自由はあっても、それを行動の自由に転化させるためには、物質的・心理的等の条件が必要である。だが長年の性的虐待と、おそらく経済的依存性から、あるいは「家族」生活に伴うもろもろの心情的な絆(きずな)もしくは軛(くびき)から、被害者はこの条件を手にできなかったのである。

娘が性的に受容することなどない

 裁判官は、それにもかかわらず「抗拒不能の状態にまで至っていたと断定するには、なお合理的な疑いが残る」と判断したというが(同記事)、それは要するに、娘が父親の性交を性的な意味で受け入れる部分がわずかながらもあったと見なしたということであろう。だが、そんなことはAVや小説の中でしか起こらない。

 なるほど、強かんされた場合でも、クリトリスに加えられた刺激によっては、時に当人が快感を覚えることはありうる(吉田タカコ『子どもと性犯罪』集英社新書、2001年、88-89頁)。だがそれと、実父との性交を受容することとは、全く別の事柄である。男性でも亀頭をさわられたら刺激を感ずることがありうると想像できるだろう。裁判官は今回の事件について、娘が父親の性交要求を

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