2019年04月11日
日中戦争が本格化した1937(昭和12)年の5月、文部省は『国体の本義』を刊行した。その2年前の天皇機関説批判を機に巻き起こった国体明徴運動を総括するべく、政府は「国体」の定義を明文化する必要に迫られたのである。
では、『国体の本義』とはどのような書物なのか。緒言に続き、「第一 大日本国体」は、国の創始(肇国)を語り、天皇の役割(聖徳)と臣民の使命(臣節)を述べ、基本理念として「和とまこと」を強調している。「第二 国史に於ける国体の顕現」は、神話と史実を織り交ぜながら、国土、国民、祭祀、道徳・文化、政治・経済・軍事などをすべからく「国体」の顕れる過程として記述している。
編纂委員には、飯島忠夫、井上孚麿、宇井伯寿、大塚武松、河野省三、紀平正美、黒板勝美、作田荘一、久松潜一、藤懸静也、宮地直一、山田孝雄、吉田熊次、和辻哲郎といった錚々たる顔ぶれが並んでいる。執筆担当は、国民精神文化研究所の志田延義であったという。
緒言から繰り返し主張されているのは、「国体」の希薄化と弱体化に対する危機感であり、その危機を乗り越えるための基軸の確認である。曰く「国体」は、古来多様な東洋思想の神髄を採り入れ、それらの醇化を通して形成されたものであり、排外を旨とするものではない。しかしながら、明治以後の西洋思想の大量の流入は、明らかに我が国の精神的混乱を招き寄せてしまった。共産主義・無政府主義の類は論外としても、一見穏当に見える個人主義・自由主義・合理主義についても十分な監督のもと、「国体」の本義に基づいて摂取し、十分な醇化が求められるのである、と。「結語」は以下のように締めくくっている。
今や我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある。我が国は夙に支那・印度の文化を輸入し、而もよく独自な創造と発展とをなし遂げた。これ正に我が国体の深遠宏大の致すところであつて、これを承け継ぐ国民の歴史的使命はまことに重大である。現下国体明徴の声は極めて高いのであるが、それは必ず西洋の思想・文化の醇化を契機としてなさるべきであつて、これなくしては国体の明徴は現実と遊離する抽象的のものとなり易い。即ち西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある。(『国体の本義』、1937)
西欧近代思想の中心に個人主義を見て、それを「国体」への脅威とする視点には、それなりに知的批評性が含まれている。日米開戦の年に発行された『臣民の道』(1941)に横溢する激烈な反欧米主義はまだ登場していない。
しかし、公的教本である『国体の本義』によって、(逆説的なことに)幕末・明治以来の伝統的な「国体」は終焉を迎えることになった。なぜなら、これ以前の「国体」はその折々の環境に応じて複数の(相反しさえする)要素を抱え込む複合的な観念だったからだ。その本質は、醇化された一様な原理ではなく、雑多に混在する多様な主張だったのである。
黒船来航の騒ぎの中で浮上した「国体」論は、まず「攘夷」と「尊王」を押し立てたが、維新革命のさなかで「攘夷」はさっさと「開国」へすり替えられた。機を一にして、最も堅固な「国体」論者であった岩倉具視さえ、「国体」に並置して「政体」があるべきことを主張する。この「国体-政体」の二元論は、自由民権運動の渦を潜り抜けて帝国憲法へたどり着く。その憲法が「君主」に寄りながら、「立憲」も織り込んだ折衷の様相を持っていたのは、始めからそこに「二重性」が埋め込まれていたからだ。「二重性」が西欧文化との遭遇に起因することは隠しようがない。
そして前稿で述べたように、昭和天皇こそ「二重性」に対してもっとも自覚的な天皇である。それを促したのは、訪欧体験に基づくモダニズムと祭祀的神秘主義のぶつかり合いだった。そして生物学への関心は、生命現象の本源的二重性の理解を通して、矛盾に頓着しない不思議な世界観を形成していったのである。
むろん母・貞明皇后は、裕仁の二重になった世界を嫌った。彼女は1924(大正13)年、筧克彦が唱道する「神ながらの道」の追求を宣言し、より原理主義的な神道へ近づいていく。その一元的な発想からすれば、融通無碍にもどっちつかずにも見える息子の思考ははなはだ気色の悪いものだったのではないか。
そもそもこの母子関係には、はじめからぎくしゃくしたところがあった。貞明皇后は裕仁を雍仁(やすひと、秩父宮)や宣仁(のぶひと、高松宮)とははっきり区別し、次代の天皇(特別な他者)として遇した形跡がある。そのため母の濃やかな気遣いは裕仁には願っても得られないものとなった。またその心中には、母の意に沿えないことへの負い目も生まれていたのではないか。
母との不仲は、弟たちとの関係にも影響を与えた。彼らは母と良好な関係を保っていたから、天皇は自分だけが「母に嫌われる子」であると観念せざるをえなかった。そのせいか、秩父宮や高松宮との関係もまたぎくしゃくしたものになった。
実際、天皇の弟たちに対する態度はどこか対抗的である。一定の見地に立っているようでいて、実は単純に逆の方向へ振っているだけのようにも見える。考え方が違うからというより、同調すること自体を頭から拒否してしまう。他方、弟たちは、まるで兄の
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