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大正天皇、貞明皇后に欧州訪問からの帰国を報告するため、日光田母沢の御用邸を訪れた(左から)昭和天皇と三笠宮(澄宮)さま、高松宮さま、秩父宮さま。1921年拡大大正天皇、貞明皇后に欧州訪問からの帰国を報告するため、日光田母沢の御用邸を訪れた(左から)昭和天皇、三笠宮さま、高松宮さま、秩父宮さま=1921年

『国体の本義』の登場

 日中戦争が本格化した1937(昭和12)年の5月、文部省は『国体の本義』を刊行した。その2年前の天皇機関説批判を機に巻き起こった国体明徴運動を総括するべく、政府は「国体」の定義を明文化する必要に迫られたのである。

 では、『国体の本義』とはどのような書物なのか。緒言に続き、「第一 大日本国体」は、国の創始(肇国)を語り、天皇の役割(聖徳)と臣民の使命(臣節)を述べ、基本理念として「和とまこと」を強調している。「第二 国史に於ける国体の顕現」は、神話と史実を織り交ぜながら、国土、国民、祭祀、道徳・文化、政治・経済・軍事などをすべからく「国体」の顕れる過程として記述している。

 編纂委員には、飯島忠夫、井上孚麿、宇井伯寿、大塚武松、河野省三、紀平正美、黒板勝美、作田荘一、久松潜一、藤懸静也、宮地直一、山田孝雄、吉田熊次、和辻哲郎といった錚々たる顔ぶれが並んでいる。執筆担当は、国民精神文化研究所の志田延義であったという。

 緒言から繰り返し主張されているのは、「国体」の希薄化と弱体化に対する危機感であり、その危機を乗り越えるための基軸の確認である。曰く「国体」は、古来多様な東洋思想の神髄を採り入れ、それらの醇化を通して形成されたものであり、排外を旨とするものではない。しかしながら、明治以後の西洋思想の大量の流入は、明らかに我が国の精神的混乱を招き寄せてしまった。共産主義・無政府主義の類は論外としても、一見穏当に見える個人主義・自由主義・合理主義についても十分な監督のもと、「国体」の本義に基づいて摂取し、十分な醇化が求められるのである、と。「結語」は以下のように締めくくっている。

 今や我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある。我が国は夙に支那・印度の文化を輸入し、而もよく独自な創造と発展とをなし遂げた。これ正に我が国体の深遠宏大の致すところであつて、これを承け継ぐ国民の歴史的使命はまことに重大である。現下国体明徴の声は極めて高いのであるが、それは必ず西洋の思想・文化の醇化を契機としてなさるべきであつて、これなくしては国体の明徴は現実と遊離する抽象的のものとなり易い。即ち西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある。(『国体の本義』、1937)


筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立。企業の組織・コミュニケーション課題などのコンサルティングを行なうとともに、戦後史を中心に、<社会意識>の変容を考察している。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師、国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『「若者」の時代』(トランスビュー、2015)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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