祝祭に酔う時、置き去りになる「傷」に向きあう
2019年04月26日
新しい元号が発表されてから、おめでたいという空気がまちにもメディアにもSNS上にも見られるようになった。個人的には、その素直さは意外なほどであって、いったいなぜ、いつの間におめでたいモードに切り替わったのかが身体感覚的に理解できず、世間の熱を帯びた空気にうまくついていけない感じがある。
新しい時代が始まるという。ならば、よりよい時代になってほしいと願う。それ自体は悪いことではないだろうし、たしかに新しさはいつも晴れやかな印象をまとっている。だから、ひとつの時代が終わることと、新しい時代を迎え入れることを歓迎する。けれど、それが翻って、いまの時代の後ろ暗さを示しているとしたら、その暗さは振り切ってよいものだったろうか。そもそも、私たちが暮らしている日本の「いま」はどんな時間なのだろう。
あえて位置付けるとしたら、「震災後、オリンピック前」とでも言えるだろうか。このときの「震災」は、2011年の東日本大震災を指し示す。これ以降にも大きな災害は各地で起きたけれど、未曽有の規模の被災と原発事故によって、社会構造の根本的な歪みがあらわになってしまったという感覚は、多くの人に少なからぬ衝撃を与えたと思う。
昭和の終わり、63(1988)年生まれ、当時大学院への進学を控える大学4年生の春休み中だった私は、その衝撃をもろに受けた世代のひとりかもしれない。1995年の阪神・淡路大震災の時は小学1年生、2001年の9.11は中学1年生だったこともあり、当時さらにぼんやりとしていた私は、それらの出来事と自分の存在が地続きであることにすら、気付いていなかったと思う。
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