2019年04月24日
今回、ニュースを見聞きしてあらためて気付かされたのは、ノートルダム大聖堂が単なる宗教上のシンボルだけではなかったという厳然たる事実である。カトリック・パリ大司教区の司教座聖堂であるノートルダムが焼けたのだから、キリスト教の信者が悲しむのは当然として、今回の場合、「私は無神論者なのだが……」と前置きをした上で、深い悲しみを吐露する一般の市民が実に多かったのだ。
火災の日、4月15日の晩、マクロン大統領は市民の気持ちを汲むように、「全ての同胞の人と同じく、今夜、私たちの一部が焼けるのを見るのは悲しい」という言葉をツイートした。普段は大統領の言葉に反感を覚える人が多いのだが、この発言に関しては、彼の他のツイートとはケタ違いの20万以上の「いいね」が付いた。市民も自分の大事なものの一部を失ったような大きな喪失感を共有したことだろう。
では、ノートルダムが体現していたものとは何だったのか。ここでいくつか駆け足で押さえておきたい。
まずノートルダム大聖堂がそびえ立つシテ島は、パリ発祥の地であり、最初に人が住み着いた場所だということ。町の中心を流れるセーヌ川の中州の島であり、まさに地理的にも中心だ。大聖堂前の広場には、パリからの距離を測る目印のゼロ地点プレートがはめ込まれ、言わば基準となる地。ここを傷つけられるのは、フランス人にとっては目玉が潰されるような感覚に近いのではないか。
歴史的にも重要だ。エッフェル塔や凱旋門など、パリには観光客が押し寄せる有名な建造物が数多いが、ノートルダムの場合は中世の昔日からパリを眺めてきたわけで、歴史の重みが違う。画家ダヴィッドの「ナポレオンの戴冠式」や、ドラクロワの「民衆を率いる自由の女神」にもノートルダムが描かれており、国の激動の歴史とともにあったことが伺われる。先の二つの大戦でも終戦の鐘を鳴らしたし、歴代大統領の国葬の場にもなった。2015年のパリ同時多発テロ後に犠牲者追悼のミサが執り行われたのも記憶に新しい。
また、芸術的な観点から忘れてはならないのが、文豪ヴィクトル・ユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』だろう。この小説から派生し、オペラ、バレエ、ミュージカル、実写の映画、ディズニーのアニメなどが次々と誕生したため、ノートルダムは世界的に親しみをもって知られていると言える。たとえノートルダム大聖堂の形を知らぬ人でも、ヒロインの“エスメラルダ”やせむし男の“カジモド”の名は、どこかで聞いたことがあるのではないか。
結局、ノートルダムが体現するのは、町や国、ひいては人類にとっての豊かな遺産・財産(パトリモワン)であると要約できそうだ。だからこそユネスコの世界文化遺産にも登録されているわけだが、ノートルダムの場合は宗教はもちろん、地理や歴史、文化・文明、芸術など、実に広い範囲で遺産であると言えるわけで、影響力が多面的で、かつそれぞれ奥が深くて濃い。
さて、不幸中の幸いと言うべきか、
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