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ノートルダムが体現する遺産の奥深さと再建の今後

林瑞絵 フリーライター、映画ジャーナリスト

火災発生から一夜明けたノートルダム大聖堂は屋根や尖塔(せん・とう)が燃え落ちていた。周辺には朝から多くの人が詰めかけていた=2019年4月16日午.jpeg
拡大火災発生から一夜明けたノートルダム大聖堂=2019年4月16日

 今回、ニュースを見聞きしてあらためて気付かされたのは、ノートルダム大聖堂が単なる宗教上のシンボルだけではなかったという厳然たる事実である。カトリック・パリ大司教区の司教座聖堂であるノートルダムが焼けたのだから、キリスト教の信者が悲しむのは当然として、今回の場合、「私は無神論者なのだが……」と前置きをした上で、深い悲しみを吐露する一般の市民が実に多かったのだ。

 火災の日、4月15日の晩、マクロン大統領は市民の気持ちを汲むように、「全ての同胞の人と同じく、今夜、私たちの一部が焼けるのを見るのは悲しい」という言葉をツイートした。普段は大統領の言葉に反感を覚える人が多いのだが、この発言に関しては、彼の他のツイートとはケタ違いの20万以上の「いいね」が付いた。市民も自分の大事なものの一部を失ったような大きな喪失感を共有したことだろう。

 では、ノートルダムが体現していたものとは何だったのか。ここでいくつか駆け足で押さえておきたい。

 まずノートルダム大聖堂がそびえ立つシテ島は、パリ発祥の地であり、最初に人が住み着いた場所だということ。町の中心を流れるセーヌ川の中州の島であり、まさに地理的にも中心だ。大聖堂前の広場には、パリからの距離を測る目印のゼロ地点プレートがはめ込まれ、言わば基準となる地。ここを傷つけられるのは、フランス人にとっては目玉が潰されるような感覚に近いのではないか。

 歴史的にも重要だ。エッフェル塔や凱旋門など、パリには観光客が押し寄せる有名な建造物が数多いが、ノートルダムの場合は中世の昔日からパリを眺めてきたわけで、歴史の重みが違う。画家ダヴィッドの「ナポレオンの戴冠式」や、ドラクロワの「民衆を率いる自由の女神」にもノートルダムが描かれており、国の激動の歴史とともにあったことが伺われる。先の二つの大戦でも終戦の鐘を鳴らしたし、歴代大統領の国葬の場にもなった。2015年のパリ同時多発テロ後に犠牲者追悼のミサが執り行われたのも記憶に新しい。

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筆者

林瑞絵

林瑞絵(はやし・みずえ) フリーライター、映画ジャーナリスト

フリーライター、映画ジャーナリスト。1972年、札幌市生まれ。大学卒業後、映画宣伝業を経て渡仏。現在はパリに在住し、映画、子育て、旅行、フランスの文化・社会一般について執筆する。著書に『フランス映画どこへ行く――ヌーヴェル・ヴァーグから遠く離れて』(花伝社/「キネマ旬報映画本大賞2011」で第7位)、『パリの子育て・親育て』(花伝社)がある。

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