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【ななふく浪曲旅日記】プロローグ

初心者が、訪ねてみました浪曲協会

玉川奈々福 浪曲師

玉川奈々福拡大玉川奈々福=御堂義乗撮影
 

 迫力の語り芸「浪曲」の人気が、じわじわと広がっています。その立役者の一人である玉川奈々福さんの連載が始まります。題して「奈々福 浪曲旅日記」。聴衆との新たな出会いを求め、芸能の始原を探り、浪曲という芸の幅を広げ続ける奈々福さん。その挑戦の道行きをつづります。

 今回はプロローグ。「論座」編集部が前座を務め、ホームグラウンドでの公演の模様をレポートします。(文・山口宏子)

いざ、日本浪曲協会へ

 東京都台東区雷門。地下鉄銀座線に乗って、終点・浅草の一つ手前、田原町駅で降りて、歩くこと5分、大通りから少し入ったところに2階建ての日本浪曲協会がある。

 ここでは毎週火曜日の夜に「毎週通うは浪曲火曜亭!」が開かれている。気軽に浪曲を楽しんでもらおうと、協会が主催し、約70人いる所属の浪曲師が交代で出演している。2人が浪曲を1席ずつうなり(浪曲の口演は「うなる」といいます)、その後に、お茶を飲みながら交流するのが基本スタイルだ。奈々福さんも年に4回ほど出演している。

浪曲協会の提灯拡大広間の壁に掛かった日本浪曲協会の提灯

 4月16日夜。初めての訪問でちょっと緊張しながら、ガラス戸を開けると、ポニーテールのお姉さん――この日、後見(会の運営の裏方)を務めていた若手浪曲師の富士実子(みこ)さん――が愛想良く迎えてくれた。「はい、1500円です」。開演まで20分以上あるのに、すでに左手の下駄箱はいっぱいだ。実子さんは脱いだ靴を三和土にてきぱきと並べ、番号札を渡してくれた。

 ガラス障子を開けると、24畳の広間。ずらりと並んだ脚の短い椅子はほぼ埋まっていた。だが、人は後から後から入ってくる。お客同士が場所を譲り合い、座布団を敷いて、思い思いの場所に落ち着く。この日のお客は44人。男女比はざっと6対4といったところか。中高年が多いが、20~30代と見える女性も目につく。

 隣に座った女性から「よくいらっしゃいますか?」と問われ、「初めてです」と答えると、「私もなんです」。聞けば、奈々福さんが出演したテレビ番組(周防正行監督と対談したNHK・Eテレ「SWITCH」)を見て、生の浪曲を聴いてみたくなったのだという。

 「予約しようと協会に問い合わせをしたら、『ただ来れば大丈夫』と言われて。ちょっと不安だったのですが、こういう気軽な雰囲気なんですね。納得」と笑っていた。

「桃中軒」の額拡大日本浪曲協会の広間に掲げられている、孫文が揮毫した「桃中軒」の額。右は桃中軒雲右衛門の写真

桃中軒雲右衛門拡大浪曲師、桃中軒雲右衛門(1873~1916)
 正面奥には、中国革命の指導者、孫文(1866~1925)が揮毫(きごう)した額が掲げられている。書かれている「桃中軒雲右衛門(とうちゅうけん・くもえもん)」とは、明治時代に絶大な人気を集めた浪曲師。大道芸だった浪曲を大劇場で演じる芸に押し上げるなど、「中興の祖」といわれた。孫文らを支援した宮崎滔天(みやざき・とうてん)は弟子の一人だった。

 額の周囲を歴代の名浪曲師の写真がぐるりと囲む。普段は稽古や会合などに使われるというこの広間は、近代から現代までの浪曲の歴史を語る場でもあるのだ。


筆者

玉川奈々福

玉川奈々福(たまがわ・ななふく) 浪曲師

横浜市生まれ。出版社の編集者だった94年、たまたま新聞で浪曲教室のお知らせを見て、三味線を習い始め、翌年、玉川福太郎に入門。01年に曲師から浪曲師に転じ、06年、玉川奈々福の名披露目をする。04年に師匠である福太郎の「徹底天保水滸伝」連続公演をプロデュースして大成功させて以来、数々の公演を企画し、浪曲の魅力を広めてきた。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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