2019年04月30日
昭和天皇とマッカーサーの会談は回を重ねていった。日本国憲法施行から3日目、1947(昭和22)年5月6日に開催された第4回会見では、「象徴」になったばかりの天皇がマッカーサーに向かって自らの外交・軍事方針を強く主張したという。豊下楢彦は、通訳・奥村勝三のメモを見た松井明の記録に基づき、憲法第9条をめぐって両者が活発な議論を交わしたと述べている。
こうした天皇のアメリカ傾斜が、長期の米軍駐留を認める「沖縄メッセージ」(1947/昭和22年)、そして1952(昭和27)年の講和条約と安全保障条約・行政協定へつながっていったことは比較的よく知られている。
今、これら「天皇外交」の詳細を論じる余力はないが、ひとつつけ加えておきたいのは、リアリズムとは二つ以上の戦略を常に作動可能な状態に保つことだという下世話な命題である。天皇はそうした戦略の実相によく通じていた。戦時中の一元化された「国体」に沈黙を守った天皇が、戦後は封印を破ったように、平和と復興を語り、津々浦々を巡ったのは、天皇の日本とマッカーサーのアメリカという二元的な戦略空間の中でなら、聖なる無頓着が許されると判断したからだろう。
1951(昭和26)年5月、貞明皇后が大宮御所で急死した。モンペをはいて、奉仕団の人々への挨拶に出たところだったという。享年66歳、死因は狭心症だった。知らせを受けて、高松宮や三笠宮ら、療養中の秩父宮を除く兄弟はすぐに駆けつけたが、昭和天皇は連絡がうまくつかなかったのか、かなり遅れて到着したもようである。
天皇はこの年、亡くなった「母」をいくつかの歌に詠んでいる。
母宮のめででみましし薯畑ことしの夏はいかにかあるらむ
あつき日にこもりてふとも母宮のそのの畑をおもひうかべつ
一時は近づくことさえ怖れた強烈な人物を「母」と呼ぶことができるようになったのは、敗戦後のことである。その母が自らつくった畑を思いやる息子の、安堵にも似た哀悼が穏やかな調べをつくり出している。「母に嫌われる子」の悲哀を知った日はすでに遠くへ去ろうとしていた。
鉢の梅その香もきよくにほへどもわが弟のすがたは見えず
二人の因縁深い肉親の死をはさんで、1952(昭和27)年11月には、皇太子明仁の成年式と立太子礼が行われ、皇太子が次代の天皇であることが明確になった。またその前日には、翌年行われるエリザベス女王の戴冠式に天皇の名代として出席することも発表された。メディアは皇太子を「日本のホープ」と呼び、戦後復興のうねりと共に、ロイヤルファミリーの世代交代が進んでいくことを寿いだ。
そしてこの年、天皇の退位という「もうひとつの可能性」が消えた。
「退位」への意向は敗戦後、3度示されたと言われている。1度目は連合軍の進駐直後。木戸幸一内大臣に対し、自身の退位によって戦争責任者の引き渡しを避けえないかと相談したという記録がある。木戸はこれに反対している。2度目は、1948(昭和23)年10月から11月にかけて、東京裁判の判決の前後である。宮中・政府内でも退位問題は頻繁に論議されたが、次第に沈静化した。退位によって高松宮や貞明皇后が浮上する可能性を天皇が警戒したためともいわれる。
3度目が講和条約の発効した1952(昭和27)年4月28日だった。天皇は吉田茂首相にその意向をもらしたが、吉田はとりあわなかった。また退位に代えて皇祖皇宗と国民に対する「謝罪」の言葉を述べるという案もあったようだが、吉田はこれにも反対した。
以後、天皇が「退位」について語ることはなかった。
昭和天皇は1950年代の半ばには、自ら思い描いた「安定軌道」を手に入れたように見える。憲法による身分保証と米国による安全保障によって、天皇がもっとも重視していた皇統の維持・継続の道が確保されたからだ。
占領の全期間にわたって、天皇はこの至上命題のためにあらゆる努力を惜しまなかった。上に述べたように、その努力はときに果敢なリアリストの相貌を天皇に与えた。彼が影響力を行使した相手はマッカーサーや吉田茂だけではない。驚くべきことに、講和条約が日程に上った1950(昭和25)年、天皇はその二人を“バイパスして”ワシントンに直接つながるパイプさえ模索していた。
トルーマン大統領から対日講和問題の担当を命ぜられたダレスは、6月に来日すると、のらりくらりと再軍備問題をはぐらかす吉田に呆れ、激怒した。これを知って天皇の危機感は募った。吉田に講和や安全保障の問題を任せておくわけにはいかない。対米交渉の最強の切り札である基地の提供は日本から持ち出すべきカードである――この意向は、宮中の側近と米国ジャーナリストを通じてダレスに届いた。サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約のセットは、ここをひとつの起点としてデザインされていったのである。
惨めな敗戦を乗り越え、天皇制が戦後に生き残ったのは、天皇とそのファミリーがみごとな「転向」をやり遂げたからだ、と私は考えている。鶴見俊輔をまた引けば、「敗戦は、日本人全体にとって普遍的な転向体験をもたらした」(久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想』、1956)が、天皇はその先陣を切って、「転向」こそ「国体」の生命力となることを示した。
もうひとつの未遂の「転向」は
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください