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昭和天皇の戦争責任と「言葉のアヤ」発言の論理

菊地史彦 ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師

1988年4月の87歳の誕生日を迎えるにあたり、皇居内を散策する昭和天皇=提供・宮内庁1988年4月、87歳の誕生日に=提供・宮内庁

天皇のリアリズム

 昭和天皇とマッカーサーの会談は回を重ねていった。日本国憲法施行から3日目、1947(昭和22)年5月6日に開催された第4回会見では、「象徴」になったばかりの天皇がマッカーサーに向かって自らの外交・軍事方針を強く主張したという。豊下楢彦は、通訳・奥村勝三のメモを見た松井明の記録に基づき、憲法第9条をめぐって両者が活発な議論を交わしたと述べている。

1945年9月、連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥を訪問した昭和天皇。敗戦の現実を国民に実感させた写真として知られる GHQ写真班(米軍)撮影1945年9月、連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥を訪問した昭和天皇=撮影・GHQ写真班
 天皇は、完全に軍備を撤廃するには、国連恃(だの)みでは心もとないこと、米国による安全保障が不可欠と述べた。対してマッカーサーは、軍備をいっさい持たないことが日本にとって最大の安全保障であり、将来の国連強化に期待すべしと説いた。しかし、天皇は納得しない。マッカーサーは天皇のリアリズムの前に屈し、半ば折れるように防衛協力を約束している。

 こうした天皇のアメリカ傾斜が、長期の米軍駐留を認める「沖縄メッセージ」(1947/昭和22年)、そして1952(昭和27)年の講和条約と安全保障条約・行政協定へつながっていったことは比較的よく知られている。

 今、これら「天皇外交」の詳細を論じる余力はないが、ひとつつけ加えておきたいのは、リアリズムとは二つ以上の戦略を常に作動可能な状態に保つことだという下世話な命題である。天皇はそうした戦略の実相によく通じていた。戦時中の一元化された「国体」に沈黙を守った天皇が、戦後は封印を破ったように、平和と復興を語り、津々浦々を巡ったのは、天皇の日本とマッカーサーのアメリカという二元的な戦略空間の中でなら、聖なる無頓着が許されると判断したからだろう。

因縁深い肉親の死と、消えた「天皇退位」の可能性

 1951(昭和26)年5月、貞明皇后が大宮御所で急死した。モンペをはいて、奉仕団の人々への挨拶に出たところだったという。享年66歳、死因は狭心症だった。知らせを受けて、高松宮や三笠宮ら、療養中の秩父宮を除く兄弟はすぐに駆けつけたが、昭和天皇は連絡がうまくつかなかったのか、かなり遅れて到着したもようである。

 天皇はこの年、亡くなった「母」をいくつかの歌に詠んでいる。

母宮のめででみましし薯畑ことしの夏はいかにかあるらむ
あつき日にこもりてふとも母宮のそのの畑をおもひうかべつ

 一時は近づくことさえ怖れた強烈な人物を「母」と呼ぶことができるようになったのは、敗戦後のことである。その母が自らつくった畑を思いやる息子の、安堵にも似た哀悼が穏やかな調べをつくり出している。「母に嫌われる子」の悲哀を知った日はすでに遠くへ去ろうとしていた。

秩父宮雍仁親王の逝去に、鵠沼の別邸へ駆けつけた昭和天皇と香淳皇后。左後ろは高松宮宣仁さま =1953年秩父宮雍仁(やすひと)親王の逝去に、鵠沼の別邸へ駆けつけた昭和天皇と香淳皇后。左後ろは高松宮=1953年1月
 1953(昭和28)年1月には、秩父宮も亡くなった。享年50歳。1940(昭和15)年に肺結核と診断され、翌年より静岡県御殿場で療養生活を送っていたが、死の前年には神奈川県藤沢市の鵠沼別邸に移っていた。秩父宮は、亡くなる前に、自身の病理解剖と無宗教の葬儀と火葬を望んだ。いずれも皇族の死において前例のないことだったが、天皇は承諾した。兄は、発病から13年間、一度も弟を見舞うことはなかった。歌を詠んだのは、40日後の2月12日だった。

鉢の梅その香もきよくにほへどもわが弟のすがたは見えず

 二人の因縁深い肉親の死をはさんで、1952(昭和27)年11月には、皇太子明仁の成年式と立太子礼が行われ、皇太子が次代の天皇であることが明確になった。またその前日には、翌年行われるエリザベス女王の戴冠式に天皇の名代として出席することも発表された。メディアは皇太子を「日本のホープ」と呼び、戦後復興のうねりと共に、ロイヤルファミリーの世代交代が進んでいくことを寿いだ。

 そしてこの年、天皇の退位という「もうひとつの可能性」が消えた。

 「退位」への意向は敗戦後、3度示されたと言われている。1度目は連合軍の進駐直後。木戸幸一内大臣に対し、自身の退位によって戦争責任者の引き渡しを避けえないかと相談したという記録がある。木戸はこれに反対している。2度目は、1948(昭和23)年10月から11月にかけて、東京裁判の判決の前後である。宮中・政府内でも退位問題は頻繁に論議されたが、次第に沈静化した。退位によって高松宮や貞明皇后が浮上する可能性を天皇が警戒したためともいわれる。

 3度目が講和条約の発効した1952(昭和27)年4月28日だった。天皇は吉田茂首相にその意向をもらしたが、吉田はとりあわなかった。また退位に代えて皇祖皇宗と国民に対する「謝罪」の言葉を述べるという案もあったようだが、吉田はこれにも反対した。

 以後、天皇が「退位」について語ることはなかった。

「転向」をやり遂げた昭和天皇とファミリー

 昭和天皇は1950年代の半ばには、自ら思い描いた「安定軌道」を手に入れたように見える。憲法による身分保証と米国による安全保障によって、天皇がもっとも重視していた皇統の維持・継続の道が確保されたからだ。

 占領の全期間にわたって、天皇はこの至上命題のためにあらゆる努力を惜しまなかった。上に述べたように、その努力はときに果敢なリアリストの相貌を天皇に与えた。彼が影響力を行使した相手はマッカーサーや吉田茂だけではない。驚くべきことに、講和条約が日程に上った1950(昭和25)年、天皇はその二人を“バイパスして”ワシントンに直接つながるパイプさえ模索していた。

 トルーマン大統領から対日講和問題の担当を命ぜられたダレスは、6月に来日すると、のらりくらりと再軍備問題をはぐらかす吉田に呆れ、激怒した。これを知って天皇の危機感は募った。吉田に講和や安全保障の問題を任せておくわけにはいかない。対米交渉の最強の切り札である基地の提供は日本から持ち出すべきカードである――この意向は、宮中の側近と米国ジャーナリストを通じてダレスに届いた。サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約のセットは、ここをひとつの起点としてデザインされていったのである。

 惨めな敗戦を乗り越え、天皇制が戦後に生き残ったのは、天皇とそのファミリーがみごとな「転向」をやり遂げたからだ、と私は考えている。鶴見俊輔をまた引けば、「敗戦は、日本人全体にとって普遍的な転向体験をもたらした」(久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想』、1956)が、天皇はその先陣を切って、「転向」こそ「国体」の生命力となることを示した。

新憲法公布記念の祝賀都民大会で、群衆に囲まれて歓呼に応える昭和天皇と香淳皇后宮城前広場新憲法公布記念の祝賀都民大会で=1946年11月3日、皇居前広場
 天皇はまず民主主義を受け入れた。1946(昭和21)年11月3日、日本国憲法公布記念式典の勅語で、戦争放棄・世界平和・人権尊重・民主主義の実現に向け、「国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任とを重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたい」と宣言した。

 もうひとつの未遂の「転向」は

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