「転向」をやり遂げた昭和天皇とファミリー
昭和天皇は1950年代の半ばには、自ら思い描いた「安定軌道」を手に入れたように見える。憲法による身分保証と米国による安全保障によって、天皇がもっとも重視していた皇統の維持・継続の道が確保されたからだ。
占領の全期間にわたって、天皇はこの至上命題のためにあらゆる努力を惜しまなかった。上に述べたように、その努力はときに果敢なリアリストの相貌を天皇に与えた。彼が影響力を行使した相手はマッカーサーや吉田茂だけではない。驚くべきことに、講和条約が日程に上った1950(昭和25)年、天皇はその二人を“バイパスして”ワシントンに直接つながるパイプさえ模索していた。
トルーマン大統領から対日講和問題の担当を命ぜられたダレスは、6月に来日すると、のらりくらりと再軍備問題をはぐらかす吉田に呆れ、激怒した。これを知って天皇の危機感は募った。吉田に講和や安全保障の問題を任せておくわけにはいかない。対米交渉の最強の切り札である基地の提供は日本から持ち出すべきカードである――この意向は、宮中の側近と米国ジャーナリストを通じてダレスに届いた。サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約のセットは、ここをひとつの起点としてデザインされていったのである。
惨めな敗戦を乗り越え、天皇制が戦後に生き残ったのは、天皇とそのファミリーがみごとな「転向」をやり遂げたからだ、と私は考えている。鶴見俊輔をまた引けば、「敗戦は、日本人全体にとって普遍的な転向体験をもたらした」(久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想』、1956)が、天皇はその先陣を切って、「転向」こそ「国体」の生命力となることを示した。

新憲法公布記念の祝賀都民大会で=1946年11月3日、皇居前広場
天皇はまず民主主義を受け入れた。1946(昭和21)年11月3日、日本国憲法公布記念式典の勅語で、戦争放棄・世界平和・人権尊重・民主主義の実現に向け、「国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任とを重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたい」と宣言した。
もうひとつの未遂の「転向」は
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