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渋沢栄一の「奇蹟」を追体験して「渋沢脳」になる

「まず多くの人を豊かにすることによって自分も豊かになる」

香取俊介 脚本家、ノンフィクション作家

渋沢栄一がデザインされた新しい1万円札のイメージ図渋沢栄一がデザインされた新しい1万円札のイメージ図

 新1万円札の「顔」になることで、渋沢栄一(1840―1931)の知名度は急上昇した。ドラマや映画等で、渋沢栄一という人物とその業績を広く知らしめたいと思っていた僕には、吉報であった。埼玉県深谷の農民出身のこの人物は、人一倍強い好奇心とあふれるようなエネルギーで、「みんなで豊かになる」という考えのもと、500の企業および600の社会福祉・教育機関の創設にかかわった。まさに超人的というしかない。

 この希有の人物との「出会い」は7年ほど前のこと。某大手広告会社のI氏から「民放初の大河ドラマを渋沢栄一でやりたいので協力して欲しい」と言われたのである。

 当時、僕は渋沢について教科書に載る程度の知識しかもちあわせていなかった。OKを出してから、渋沢関連の膨大な書籍類に目を通していくうち、これは容易ならざる人物だと思い、身の引き締まる気がした。

 「民放初の大河ドラマ」は放送枠の取得がむずかしい上、膨大な制作費を捻出できそうもないとのことで、残念ながらボツとなった。しかし、それで気落ちしていては「渋沢栄一」らしくない。渋沢関連の資料と数ヶ月間、格闘するうち、こちらの脳がかなりの程度「渋沢脳」になっていたのである。

 義憤もあった。あれだけ維新後の日本の近代化に貢献した「偉人」なのに、特に若い層が渋沢栄一について「聞いたことがある」といった程度の知識しかもっていなかった。1万円札の「顔」になるとのニュースが流れた後も、テレビのワイドショーが、渋沢栄一を知っているかどうか町の声を聞いたところ、若い人の9割が知らないと答えていた。

 ガスや電気、鉄道等々、渋沢のかかわったインフラひとつとっても、今なお多大の恩恵をあたえつづけ、教科書等に載っているはずなのに。「温故知新」は死語になってしまったのか。

渋沢栄一(1840―1931)渋沢栄一(1840―1931)

もし渋沢栄一がいなかったら…

 ともあれ、趣旨に賛同してくれた田中渉氏の助力を得て出来上がったのが、『渋沢栄一の経営教室Sクラス』(日本経済新聞出版、2014年)である。多くの若い人に渋沢栄一の偉業を知って欲しいとの思いから、映像化を視野にいれた作りにした。主役は金銭的に窮状に陥った現代の高校生とし、イジメにあった末、幕末の渋沢邸にタイムスリップをするという設定にした。

 単なるタイムスリップものでは面白くないので、タイムスリップ先で高校生は八咫烏(やたがらす/日本神話で神武天皇の道案内をしたとされるカラス)に変身する。そして血気盛んな渋沢青年の着物の袖にはいり、尊皇攘夷の吹き荒れる幕末から明治維新にかけて、およそ8年間、渋沢と行をともにする。徳川慶喜の弟、徳川昭武のパリ留学のお守りとしてパリにいく渋沢に同行し、渋沢の見聞を八咫烏姿の高校生は自分の糧にしていく。やがて現世にもどって起業をし、「渋沢スピリッツ」に基づき悪戦苦闘の末、会社を成功に導く。

 執筆当時、僕は旧友から「心臓移植をしないと命にかかわる中学生の男の子」の話を聞いていた。日本では心臓移植は禁止されているので、アメリカで手術を受ける必要がある。その費用は1億5000万円と高額だ。有志が募金活動をはじめ、なんとか目標額が集まったところ、中学生は短い命を閉じてしまった。

 この出来事からヒントを得て、主人公の母親を、「アメリカで心臓移植をしないと1年足らずで死んでしまう」という設定にした。高校生は、時折亡霊で出現する渋沢栄一のアドバイスに助けられたりしながら事業に成功し、1億円余の金額を用意できた。ところが時遅し、母親の心臓は止まってしまった……。

 完成原稿に目を通してくださった渋沢史料館の館長から、「この小説は渋沢栄一の格好の入門書です。面白い展開だし、ぜひ多くの若い人に読んで欲しい」と褒め言葉をいただいた。

 人をどう評価するかは、その人の価値の尺度によって180度かわってしまう。僕は評価の基準を「もしその人がいなかったら、どうなっていたか」に置く。

 歴史に「もし」は意味のないことといわれるが、渋沢栄一については「もし渋沢がいなかったら」と前置きして、明治維新から大正、昭和、平成の世の中がどうなっていたか、想像をめぐらせたくなる。渋沢がこの世に存在しなかったら、恐らく日本の近代化はかなり遅れ、日露戦争に敗北するか、あるいは戦いを避けたことも考えられる。地味ながら渋沢は近代日本にとって、それほど大きな存在だった。

大隈重信と共に、大蔵省の基礎をつくる

 経済活動ばかりではない。渋沢は「国の発展の基礎は教育にあり」という信念のもと、「商業活動に学問は不用」「女子に高等教育は無用」という当時の風潮に抗して、東京商科大学(現・一橋大学)や日本女子大学の設立に、金銭面でも精神面でも多大の協力をした。他の教育施設の創設に際しても、渋沢の貢献はめざましく、鮮やかでもある。

 例えば早稲田大学。1917年、大学が出来て間もなく「早稲田騒動」が勃発した。初代学長の高田早苗と2代目学長の天野為之との間で、教育方針等をめぐって意見が対立。全学をまきこんでの大騒動となり、何人もの教授が辞め、学生の間からも退学者が続出した。二次にわたる騒動であった。

 初代総長の大隈重信は政治の中枢で難題にとりくみ忙しく、解決に乗り出す余裕もない。そこで渋沢が

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