2019年05月09日
「日本通史の決定版!」と銘打って出版された百田尚樹著『日本国紀』(幻冬舎、2018年)は、刊行直後からWikipediaからコピペされたと思しき文が本文中にちりばめられていることが指摘されて話題となった。そうしたネット上での指摘をこっそりとりこんで、同書は版を重ねるごとにすこしずつ内容が変わっているらしい。
本来ならば引用元出典表記なき「剽窃」案件として絶版・回収処置をとるべき事態だが、「著者」として名前を出している百田尚樹も、「創業25周年企画」と銘打って同書を売りまくった幻冬舎も、厚顔無恥にもそのまま販売を続けている。
本の内容が時々刻々と変わっていくというのは、ボルヘスの寓話に出てくる「砂の本」を想起させるが、21世紀日本の「砂の本」は剽窃とコピペをごまかすための仕掛けに過ぎなかった……。
私は発売当日に「初版」を入手して読んだが、その中に驚愕の記述があった。
同書第十三章は、「大東亜戦争」後にアジア諸国が独立したのは「無敵の強者と思われていた白人をアジアから駆逐する日本軍を見て、彼らは自信と勇気を得たのだ」(同書、445頁)と述べる〈大東亜戦争でアジアを解放した〉論が展開されており、その論を補強するために何人かの戦後アジアの要人の言葉が引かれている。
その最後に、この人物の「言葉」が並んでいた。
最後に、タイのククリット・プラモート元首相のジャーナリスト時代の言葉を紹介したい。
この言葉こそ、アジアにおける大東亜戦争の姿を見事に言い表わしている。ちなみにタイは戦前、東南アジアで唯一の独立国だった(タイが独立を許されていたのは、植民地を奪い合う欧米列強が緩衝地帯としていたためだった)。
「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない」(現地の新聞サイアム・ラット紙、昭和三〇年十二月八日)
……これだけ見ると、「日本スゴイ」本によくある「日本を称賛するアジアからの声」のようだが、実はこのククリット・プラモートが書いたという記事は、日本語で登場していらい50年近くにわたって出所不明なままの、きわめて謎に包まれたテクストだったのだ。
今回、百田『日本国紀』でこの記事が掲載された年月日がはっきりと活字になったことは、これまで右派系〈大東亜戦争でアジアを解放した〉論者がコピペにコピペを重ねてきたこの発言の出所を、はじめて明らかにしたという画期的な意義を持っている。
この発言に、これまで多数の「日本が好きなだけの普通の日本人」たちが「感動した」「涙が出てきた」「WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)の洗脳が解けた」と熱く語ってきた。その感激が捏造発言によってつくられたものではないことが証明されたのだ――と、感極まってみたいものだが、さて百田尚樹『日本国紀』の掲載日付はホントなのだろうか?
ククリット・プラモートは1911年にタイ王室につらなる名家に生まれた人で、「大東亜戦争」中は日本軍に対するレジスタンスを行い、戦後は政治活動とともにジャーナリストとして「サイアム・ラット」紙の主幹をつとめ、1975年にタイ王国首相となった人物だ(1995年没)。
彼が執筆したとされる「日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した……」にはじまる記事が、日本語で最初に登場したのは、私が調査した限りでは1968年に刊行された名越二荒之助(なごし・ふたらのすけ)の著書『大東亜戦争を見直そう』(原書房)だ。同書では次のようになっていた。
大東亜戦争に対して積極的意義を見出す発言は、ウエルズやトインビーのような大歴史学者ばかりではありません。ククリット・プラモードというタイ国の記者は、現地の新聞に、「十二月八日」と題して、もっと端的に、判りやすい評論を発表しております。
「日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生れた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。十二月八日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決心をされた日である。われわれはこの日を忘れてはならない」
この文章を読んだ日本人は、余りにもよくでき過ぎているので、誰かの創作ではないかと思われましょう。そう思われるのも無理はありません。現代の日本人は、十二月八日を「日本自滅の第一ページを奏でた悪夢の日」とか、「暗い谷間に突入した苦汁の思い出」とか言うてあいが多いのが実情ですから。(名越二荒之助『大東亜戦争を見直そう』原書房、1968年、61―62頁)
この名越二荒之助は、右派業界ではたいへん有名な人物だ。彼は戦前から小田村寅二郎がひきいる日本主義学生運動に参加、兵役についた後、シベリアに5年間抑留される。もともと抱懐していた右翼思想に、ソ連のラーゲリで培われた強固な反共の信念が結合する。帰国後は岡山県立笠岡商業高校に教諭として勤務しながら、戦前の運動を引き継いで小田村らが再建した国民文化協会の理事をつとめ、同協会の機関誌で健筆を振るった。また岡山県の遺族会を始め各地で講演も行っていた。名越の最初の著書『大東亜戦争を見直そう』は彼の講演をまとめたもので、原書房版には岡山県遺族連盟事務局長があとがきをよせている。
「アジアの解放と明治百年」の章からはじまるこの本は、〈「大東亜戦争」で日本がアジアを解放した〉論が基本的なコンセプトだった。ちょうど林房雄『大東亜戦争肯定論』(雑誌掲載は1963―1965年)が世に登場し、大いに議論を呼んでいた時期でもあった。
「日本というお母さん」引用の前後に書かれている名越の言葉から、プラモートの「記事」がいかなる意図で引き合いに出されたのかがよくわかる。「日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した」――まさにこの言葉を、名越は待ち望んでいたに違いない。
とはいえ、本書ではプラモート記事の掲載年月日は一切記されていない。講演会ならばそれで通用するかもしれないが、こんな引用元不明の片言隻句を活字にしてしまう根性には驚いた。
念のため、彼が参加していた国民文化協会の機関誌『国民同胞』を創刊時(1961年)から『大東亜戦争を見直そう』刊行時(1967年)まで調べてみたが、名越による「日本というお母さん」発言に関する言及は見当たらなかった。
次に名越がこの発言を持ち出したのは、1981年に刊行した『戦後教科書の避けてきたもの』(日本工業新聞社)だった。
この本で名越は、
タイのククリッド・プラモード氏は、「十二月八日」と題する感動的な文章を書いている。〔中略〕次に掲げる「十二月八日」と題する一文は、タイの良識を代表する人の言葉であることを知って読んでほしい。(147頁)
という前置きとともに、プラモート記事を引いている。しかし、この時もまた掲載年月日が示されてはいなかった。
引用元不明であるにもかかわらず、「日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した」という言葉が〈日本は侵略戦争をやったわけではなかった〉〈日本はアジアを解放した〉という願望を裏付けしてくれるために、これ以降の右派文献のなかでくりかえし活用されてゆくことになる。
ところが、「記事をいまここに持っている」という人物が現れた!
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください