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「日本というお母さん」記事の改変と跋扈

早川タダノリ 編集者

大東亜会議の各国代表  
写真説明 右から、タイのワンワイタヤコン殿下、汪精衛中華民国(南京政府)行政院長、青木一男大東亜相、張景恵中華民国総理、重光葵外相、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、インドのチャンドラ・ボース首班  

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*撮影日は推定の場合もあり、再利用の際は、写真説明とともに確認・校閲をお願いします    撮影(提供)者 東京写真部 
撮影者肩書き   
出稿所属部門   
撮影日 1943年11月4日 
被写体所在地 国会議事堂正面で 
 
大東亜会議の各国代表。右から、タイのワンワイタヤコン殿下、汪精衛中華民国(南京政府)行政院長、青木一男大東亜相、張景恵中華民国総理、重光葵外相、フィリピンのラウレル大統領、ビルマ(当時)のバー・モウ首相、インドのチャンドラ・ボース首班=1943年11月4日、国会議事堂正面で

派生バージョンの誕生

 前回「『日本国紀』に現れた「日本というお母さん」伝説」で書いたように、『アジアに生きる大東亜戦争』でクローズアップされて以降、名越二荒之助(なごし・ふたらのすけ)が掲載年月日・掲載紙も原文も明らかにしないままにほうぼうで紹介していたククリット・プラモートの「記事」が、さまざまなバージョンを生み出しながら拡散していった。

『日本国紀』に現れた「日本というお母さん」伝説

 まず大きな変化の一つ目は、これまで名越文献にはなかった一文が追加されたことである。

 土生良樹『日本人よありがとう――マレーシアはこうして独立した』(日本教育新聞社出版局、1989年)は、戦時中の「南方特別留学生」として日本で教育を受け、のちに政治家となったラジャー・ダト・ノンチックの波乱万丈な生涯に、マレーシア独立史をからめて描いたものだ。いうまでもなく著者の立場は「四世紀半に及び、アジアの植民地を支配したヨーロッパ勢を鎧袖一触で倒し、アジアの新時代の黎明を招来した日本人の血潮の業績は、青史(世界史)に明記され、マレーシア、インドネシア、そしてビルマの人々の心に、日本が残した遺産となって生きています」(310頁)というもの。

 日本の敗戦について触れられたこの本の第6章で、突然ククリット・プラモート「記事」が出てくる。

 タイの元首相ククリット・プラモード氏が、タイの新聞『サイヤム・ラット』紙に発表した『十二月八日』と題するものである。
 「日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が、アメリカやイギリスと対等に話ができるのは、一体だれのおかげであるのか。それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあったためである。十二月八日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決意をされた日である。さらに八月十五日は、われわれの大切なお母さんが、病の床に伏した日である(強調筆者)。われわれはこの二つの日を忘れてはならない」(142頁)

 名越のオリジナルと読点の位置など細かい違いがあるが、何よりも「八月十五日は、われわれの大切なお母さんが、病の床に伏した日である」という一文が新たに「発見」され、つけくわえられたことだろう。さらにここでは、名越が一貫して曖昧にし続けてきた掲載紙を、「サイヤム・ラット」紙とはっきり表示してもいるのには驚いた。

 これは土生が独自のソースにあたったのか?とも思われたが、参考文献には「サイヤム・ラット」紙が挙げられておらず、他方名越の『大東亜戦争を見直そう』が挙げられており、日本語の訳文も『見直そう』にほとんど沿っていることから、土生による独自訳ではなく、名越本からの引用がベースとなっていると推測しうる。

 もしも名越がプラモート「記事」の原文を所持していたのなら、「八月十五日」以降の記述を意図的に無視したとは考えられない。このことから、土生本における「八月十五日」の一文の「発見」と掲載紙の追加は、名越によるこのプラモート記事「発見」にならぶ不可解な事件としか言いようがない。こうなるとこの一文の追加は〈創作〉だと断定したくなる衝動に駆られるが、一応「可能性が濃厚に疑われる」としておこう。名越も土生も、原文も掲載年月日も示していないのだから、本人たちがそれを公表すればすべて解決するのだが。

1941年12月8日、日本軍はタイに進駐した。写真は進駐する日本軍に日の丸を振って歓迎するタイ在留邦人1941年12月8日、タイに進駐した日本軍に日の丸を振って歓迎するタイ在留邦人

「日本人としての誇り」って安いんだなー

 ところで、この土生本での「八月十五日」記述の「発見」は、名越のオリジナルから離れた別系統のミーム(模倣子)を生み出した。「八月十五日」がくっついているプラモート「記事」の引用を、市販された書籍で見つけた限り挙げてみると、例えば田母神俊雄『自らの身は顧みず』(WAC、2008年、115頁。引用元出典なし)、吉本貞昭『世界が語る大東亜戦争と東京裁判――アジア・西欧諸国の指導者・識者たちの名言集』(ハート出版、2014年、引用元としては表記されていないが、参考文献に土生本が挙げられている)などがある。

 この吉本貞昭『世界が語る大東亜戦争と東京裁判』は、「これまで著者が大東亜戦争と東京裁判を研究する上で、導きの星として仰いできた、アジア・アフリカ・南米・西欧諸国の指導者と識者たちの名言を本書に掲載した」(13頁)というしろもの。しかも全体の約半分が260名分の日本を褒めてくれるありがたい「名言」で占められていて、そのほとんどに出典がついていないため、紹介されている「名言」がホントかどうか裏付けを探そうとしても、膨大な労力を必要とするすさまじい本だった。

 吉本は「はじめに」で、

 本書に掲載した名言は、まるで宝石のように今もなお、その輝きを放って我々に生きる勇気と希望を与えてくれるのである。
 日本人は、これらを通して、かつて日本が大東亜戦争中に蒔いたアジア解放と大東亜共栄圏の種が実って、戦後、アジア・アフリカ・南米諸国が独立し、発展できたこと、そして、日本がそれらに大きく貢献した国であることに対して、もっと大きな自信と誇りを持つべきなのである。(13―14頁)

 と書いている。「日本が大東亜戦争中に蒔いたアジア解放と大東亜共栄圏の種が」戦後アジアに実った……戦時下の大東亜共栄圏構築に向けたプロパガンダを真に受けた、なんともトホホな意気がりである。けれども本書のコンセプトの骨組みがこれであり、日本人に「大きな自信と誇りを持つべきなのである」と訴える陳腐なメッセージに共感する陳腐な人物たちには天上からの福音として聞こえるのだろう。

 じっさい、〈日本がアジアを解放した〉〈侵略戦争ではなかった〉論のありがたい「名言」カタログとしてこの本は活用されており、例えばユーチューバーのKAZUYA

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