
東京都池袋で、通行人をはねて大破した乗用車(右)と、交差点で衝突されて横転したごみ収集車=2019年4月19日、東京都豊島区東池袋4丁目
「横断車道」、車遮断機…過剰な車社会の改善策
自動運転技術は自動車「事故」の解決策にならない
今、太陽ははれやかに昇ろうとしている、
まるで昨日のうちに、何事もなかったかのように。
これはハインリッヒ・リュッケルトの詩である(本稿では原詩の「昨晩」を「昨日」にかえた)。マーラーが、これを含む詩に曲をつけている。『亡き子をしのぶ歌』という題で知られている。
凄惨な「事故」と社会の共同黙秘
2019年5月8日、凄惨としか言いようがない「事故」が滋賀県大津市でおきた。保育士につれられた保育園児たちが交差点で信号待ちをしているさなか、車道上で衝突した車の1台が歩道に乗り上げて、いたいけな幼児たちの列につっこんだのである。
かわいそうなことに、園児らのうち2人がたった2歳で亡くなった。その親が、家族・親族が、8日、慟哭(どうこく)の涙をどれだけ流しただろうか。それを思うだけで、いたたまれない。
「負傷」ですんだ他の園児の親・家族・親族は、8日、安堵の涙を流したであろう。だが負傷の度合いによっては、今後、園児が直面するかもしれない壮絶な人生(後述)を、思わずにはいられなかっただろう。
そして9日、太陽は、「まるで昨日のうちに、何事もなかったかのように」昇ったのだろうか。あたかも、問題を根本的なしかたで決して問おうとしない、現代社会の共同黙秘を象徴するかのように。
なるほどメディアはこの「事故」についてくり返し報道した。だが、日常的な生活空間で、こうして一瞬のうちに人の命(がんぜない幼子の命さえ)が奪われるという非人道的な事実とその根本原因そのものに、問題意識はけっして向かないのである。
今回おきたのと本質的に同じ問題をかかえる悲惨な死亡「事故」が、先月来、横断歩道上で何度もおきたというのに――東京都池袋で、神戸市で、千葉県木更津市で、札幌市で(後述)――、根本的な問いかけはなされなかった。残念だが、今回もまたそのときと変わらないようである。
近年の「事故」動向が助長する無自覚
近年、いわゆる自動車事故の「西独型」対策(道路のITS〔高度道路交通システム〕化、救急医療体制の整備、車自体の安全性強化等)の普及や、悪質運転の厳罰化(「危険運転致死傷罪」等の導入)なども手伝ってか、同事故死者は減りつづけており(ただし最近停滞している)、またITやAI等による「自動運転」が安全運転を担保すると喧伝されている。
それだけに今、人命殺傷を含む「車問題」が満足に論じられなくなっている、と感じられてならない。だが、問題がなくなったのではない。「事故」は日々に各地でおきている。ただし日々に、各地で、少しずつおきるからこそ、問題がまとまった形で注目されることは少ない。一時的に注目されても、日々におきるからこそすぐ忘れられる。各地でおきるから、他地域では記事・ニュースにさえならない。
車の運転とは、常に人の命をあやめうる厳粛な行為だというのに、その点が社会的な規模で自覚されることは、ほとんどなくなっているように思える。だがこんなことで本当によいのだろうか。
私は、1983年春、北海道の雪どけ後の道を幼いわが子が歩くのにつきそいながら、大人にとってなんでもない日常の空間が、この子にとってどんなに危険な場所になっているかに驚愕しつつ、ずっと「車社会」の問題を考えてきた(『人にとってクルマとは何か』大月書店、『野蛮なクルマ社会』北斗出版、『クルマが優しくなるために』ちくま新書、その他)。その私がいま考えていることを、最近の悲惨な事故をもとに以下に論じたい。
なお近年、自動運転(安全運転をふくむ)技術は日進月歩の状態にあり、今それへの期待も大きいと聞く。だが後述する理由(続稿)で、これに立脚した議論は行わない。