
街中の実証実験で走行する自動運転のバス=2019年3月、大津市
自動車「事故」続出、実現していない人と車の分離
「横断車道」、車遮断機…過剰な車社会の改善策
すでに100年以上にわたり、巨大な破壊力を有する移動物体が、弱い歩行者が歩くのと同一の空間を走り、実際に多くの犠牲者を生んできた。だが、両者の利用空間を意味のある仕方で分けようとする確たる方針は出てこなかった。
これは異常な事態である。多くの人がモータリゼーションの利便さに慣らされ、自らの行為・社会的制度のありようを、冷静にかえりみる良識を失っていたように思える。
今回たてつづけにおきた事故には、前稿(「自動車「事故」続出、実現していない人と車の分離」)に記したように、それぞれの固有の背景・事情があるだろう。それを問うことは重要だとしても、人と車とを同一平面上に置いているという根本的な事実こそ、問題視しなければならない。
これを問わなければ、凄惨とも言うべき今回のような「事故」はけっしてなくならない。
近代社会とその理念
日々の生活を送るあたりまえの日常空間で、唐突に人の命が奪われている。しかもそうした状態がすでに100年にもわたって続いている。――この異様な現実は、現代社会が、近代の理念そのものに抵触するという容易ならざる事態に陥っていることを、意味する。
近代は人の権利に目をむけた時代である。人の尊厳を自覚し、誰もが人としての権利(人権)を有し、したがって公的機関はその保障を固有の責務と自覚するようになった。そして歴史的に多様な人権・権利が提起され、その保障にむけた努力がつみ重ねられてきた。その到達水準からすれば世界はまだ発展途上であると言わざるをえないが、それでも人類は広範な人権保障にむけてたゆまぬ努力を傾けてきたと評価できる。
だが一方で現代社会は、最も基本的であり重要な人権たる命――日本国憲法第13条は人権を「生命、自由及び幸福追求」と総括するが、その筆頭にあるのが「生命」である――を、ごくあたりまえの日常生活の場で、いとも簡単に毀損する自動車システムの採用・普及を許し、それが、政府によっても深刻に問われることなく、モータリゼーション政策を通じて、過剰な規模にまで肥大化させられてきた。
なるほど車の危険性は早くから自覚され、それを回避するために多様な工夫がなされてきた。イギリスでは、危険を知らせるために赤旗をもった人を車に先導させたし、日本でも「大正」期には、都市部では最高速度を時速20kmていどに抑えさせ、雑踏では時速4kmていどにまで落とさせている(星野芳郎『技術と人間――技術革新の虚像と実像』中公新書、73-4頁)。
だがそれらの努力は、その後満足にかえりみられることなく、それどころかむしろ自動車資本の圧力によって廃止に追いこまれた(同前、75頁)。その後政府は、人々・歩行者にもたらされる危険などものともせずに、大規模なモータリゼーション政策を採用し、その問題性は根本的に問われる機会もないまま、なしくずし的に全国に広められる結果となった。歩道・横断歩道・信号機はその過程で普及したが、そのていどの低い水準で議論をとどめたのが現今の状況である。
こうして、人が暮らすあたりまえの日常空間で、車によって人の命がいとも簡単に奪われる。そうでなかったとしても、子どもでさえ一挙一動の判断の違いによって明暗が決定され、身体損傷を負えば影響は生涯にわたって続きさえする(後述)。――私たちはこうした世の中のありように慣らされてしまっているが、近代社会の理念を考えれば、これは異常な事態である。
いま、多様な場面で「尊い命」ということばが用いられる。これは人権意識の広がり・深化を示す典型的な例である。だがその尊い命に、現今のモータリゼーションのシステムはどれだけ配慮しているか。そこでは「尊い命」は空虚な合言葉であり、その尊重・配慮はただの空手形にすぎないのではないか。
後述するように、一般の歩行者はもちろん、小学生にさえ強いられる日々の多大な心理的負担・実際的被害を思えば、この点は否定できまい。原則的な対策に関する私案は次稿で論ずるが、つねに根本にかえって事態を見つめ、必要な政策の採用へとむけた努力を傾注しないとすれば、「尊い命」はただの合言葉であるばかりか、免罪符に堕す可能性さえある。社会の目がここにいたらないとすれば、「近代」には根本的な問題性がひそんでいたと総括しなければならない。