
自動運転バスの走行実験で、車載カメラによる映像認識の様子が映し出された車内のモニター=2019年3月、鳥取県八頭町
「自動運転」への過剰期待はひかえるべきである
ITは日進月歩であり、これの自動運転(安全運転をふくむ)への応用は、私が考えていたレベルをはるかに超えているようである。
だが少なくとも現時点では、自動運転は未完成の技術にすぎない。しかも、仮に一般道路での自動運転が技術的に可能だったとしても、それを低コストで乗用車に応用しうるか否かは別問題である。近年、新車の値上がりが続いているが、これに加えて1台あたり100万円単位の経費がかかるハードのために(鶴原吉郎『EVと自動運転――クルマをどう変えるか』岩波新書、121-5頁参照)、一体どれだけの人が出費を承認するであろうか。
なるほど公道上での実験や、高レベル自動運転の実現可能性が喧伝されている(ただし世間で言われるほど未来は明るくないようである。冷泉彰彦『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢―クルマの近未来』朝日新書、68頁以下)。
だが、仮に現在保有されている8000万台を超える車すべてが一般道路を走れる自動運転車になったとしても、それははるか未来の話である。自動運転のためにはエンジンよりもモーターがより効果的だというが、モーターで駆動するEV(電気自動車)の完全普及にさえ、今後30年はかかると見こまれているほどである(鶴原179頁;7頁、42頁)。
そもそも自動運転車に乗るには相応の動機が必要だが、車の運転自体を「現在望みうる最大の自由の悦び」を与える装置(佐藤潔人『自動車=快楽の装置――人間との〈幸福な〉関係をめざして』光文社、5頁)と見る人が、はたして自動運転を受け入れるだろうか。私がみるところ、多かれ少なかれその種の思いを車に託す人は決して少なくない。
安全運転の観点にしぼっても、問題が多い。自動運転技術がどんなに高度になろうが、物体の運動法則(慣性の法則)
・・・
ログインして読む
(残り:約1522文字/本文:約4187文字)