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労働現場に潜入取材した海外の優れたルポを読む

21世紀の『イギリスにおける労働者階級の状態』

駒井 稔 編集者

「外国人は出ていけ」と叫ぶ極右の抗議デモ=9日、ザクセン・アンハルト州ケーテン201809拡大外国人排斥を主張する極右の抗議デモ=2018年9月、ドイツのザクセン・アンハルト州ケーテン

 毎年10月に開かれるフランクフルト・ブックフェアは世界最大のブックフェアです。フェアの期間中はフランクフルトの街は、いわば本の街と化します。主要なホテルのロビーは昼間から打ち合わせの場所となり、夜は社交の場として賑わいます。お酒を飲みながら本についての情報を交換するのが、フェアの楽しみの一つと言ってもよいくらいです。その晩、フランクフルトのホテルにある大きなバーで、私はイギリス人の女性エージェントと歓談していました。

 2005年のことだったと記憶しています。朝から英語でのミーティングを続けてきた疲れからか、アルコールの回りが早いことは自覚していました。ちょうどイギリス文化とドイツの文化の違いについて語り合っていた時だったので、注文を取りに来た初老のバーテンダーに何気なく「あなた方ドイツ人は……」と語りかけたのです。それに対する答えは、予想もしないものでした。

 「アイム・ターキッシュ(私はトルコ人だ)」。バーテンダーは突然私に向かって大声で叫びました。世界中の出版関係者がずらりと並ぶ広々としたバーが一瞬、水を打ったように静まり返り、困惑が広がっていくのが分かります。私の発した不用意な一言がこのような激烈な反応を呼び起こしたに違いないという非難の眼差しが、刺すようにこちらに向けられたのを鮮明に覚えています。21世紀になってもトルコからの移民がドイツの大きな社会問題であることは承知していました。

 夜、フランクフルトの街中を歩いていると明らかにドイツ人とは違う雰囲気の若者たちが、不満をぶちまけるように、酒に酔って何事かを大声で叫んでいます。タクシーに乗って何気なく、昨日の運転手は道を知らなかったと言えば、運転手は断定的に何度も同じ言葉を繰り返しました。

 「そいつはトルコ人に違いない。俺たちドイツ人は道をよく勉強しているんだ。そいつはトルコ人だ」

 移民に対するあからさまな反感を聞くことはひどく不快でした。善良そうなドイツ人が、トルコ人のことを話すと豹変するのですから。そういう発言を聞いた時に私の脳裏に浮かんだのは、以前に読んだ『最底辺 Ganz unten――トルコ人に変身して見た祖国・西ドイツ』(ギュンター・ヴァルラフ著、マサコ・シェーンエック訳、岩波書店、1987、品切)でした。

 この本はドイツ人ジャーナリストがトルコ人に変装して最底辺の労働現場へ潜入して書かれた迫真のルポルタージュです。冷戦下の西独で書かれたものですが、21世紀になっても依然として読む価値のある、いわば古典的な名著であると思います。コンタクトレンズで目の色を濃くして、さらに黒い毛のかつらをかぶり、自らをトルコ人のアリと名乗って、片言のドイツ語を話し現場に出ていく著者の勇気ある行動は、ドイツ社会の実態を描き出すことに成功しています。

 ドイツ人たちがいかに残酷にトルコ人をはじめとする移民に接するのかを読んで慄然としました。農家で家畜のように扱われ、手回しオルガン弾きをしても1銭も稼げない。建築現場では労働者用の汚れたトイレを清掃させられ、過酷な労働を強いられる上にドイツ人の同僚にひどい言葉で侮辱される。

 派遣会社から工場に送られた著者であるアリは、まさに最底辺の劣悪な環境の職場で長時間労働をするトルコ人の「同胞」に出会います。最終章では原発のことにも触れられています。原発で問題が起きた時はトルコ人労働者が動員されるのです。もし被曝しても祖国に帰国したら何十年か後の健康問題は、ドイツの統計に出ることもないからです。

 訳者あとがきで、この本は当時の西ドイツ出版史上最高のベストセラーになったとあります。この訳書が刊行された時点で240万部という数字には驚きました。ふだんはこの種の本を読まない労働者はもちろん、在独トルコ人もトルコ語訳で読んだといいます。


筆者

駒井 稔

駒井 稔(こまい・みのる) 編集者

1979年、光文社入社。1981年、「週刊宝石」創刊に参加。1997年に翻訳編集部に異動になり、書籍編集に携わる。2004年に編集長。2年の準備期間を経て2006年9月に古典新訳文庫を創刊。「いま、息をしている言葉で」をキャッチフレーズに古典の新訳を刊行開始。10年にわたり編集長を務めた。筋金入りの酔っ払いだったが、只今禁酒中。1956年、横浜生まれ。