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労働現場に潜入取材した海外の優れたルポを読む

21世紀の『イギリスにおける労働者階級の状態』

駒井 稔 編集者

先進国の抱える移民問題は深刻拡大ヨーロッパ各国の抱える移民問題は深刻だ=パリ郊外サンドニ

「アメリカン・ドリーム」はすでに困難に

 メルケル首相の難民問題への取り組みに対する強い反発や最近のスペインをはじめとするヨーロッパ諸国の反移民を掲げる極右の台頭など、現在の先進国の抱える移民問題は深刻です。今年から外国人労働者の受け入れを拡大した我が国も例外ではないことを肝に銘ずるべきではないでしょうか。

 10年ほど前のことです。南フランスを旅していた時でした。南仏の美しい風景を楽しんでいた私は、そのイメージを覆すような光景を目にします。エクス=アン=プロヴァンスにあるセザンヌのアトリエを訪ねた時でした。バスに乗った私は車内が仕事帰りらしいアフリカ系やアラブ系の若者でいっぱいなのに気づきました。

 後で行き先に彼らの住む共同住宅があるからだと知るのですが、いわゆる私たちのイメージするフランス人は一人しか乗っていません。若い女性が赤ん坊を抱いて座っていたのです。その時の彼女の悲しいくらい緊張した表情を忘れることができません。若者たちは気さくに挨拶を交わしていますが、母親は子供を強く抱きしめたままずっと下を見ていました。

 フランス人の友人にこの話をした時に彼はこんな風に言いました。

 「その若者たちも、もちろんフランス人だよ」

 「フランスで生まれた者はすべてフランス人だ」という理想主義的なフレーズを聞いたことがありますが、現実はそううまくいっていないことをまざまざと思い知らされた出来事でした。

 「夜明けにはマリの人々がパリの肌を変える」(永瀧達治訳)というシャンソンの一節が思い出されます。イヴ・シモンという歌手が歌った『パリ'75』という曲です。朝の早い時間に道路清掃で働いているのはマリ人などの黒人やアラブ人。旧植民地から来た労働者が多いことを示唆しています。人間は皮膚や目の色、そして文化的、宗教的な背景で自分と他者を否応なく区別する存在であることを深く思い知りました。

『ニッケル・アンド・ダイムド――アメリカ下流社会の現実』(バーバラ・エーレンライク著、曽田和子訳、東洋経済新報社、2006)拡大バーバラ・エーレンライク著、曽田和子訳『ニッケル・アンド・ダイムド――アメリカ下流社会の現実』(東洋経済新報社)
 先進的な国家の抱える、もう一つの大きな問題は格差の固定化です。高所得層が富めば、低所得層にも自然に富が流れるというトリクルダウンは一向に起きる気配もなく、新自由主義的な政策が積極的に進められるようになってから、この問題はいっそう顕著になってきました。

 もう1冊ご紹介しましょう。『ニッケル・アンド・ダイムド――アメリカ下流社会の現実』(バーバラ・エーレンライク著、曽田和子訳、東洋経済新報社、2006)です。タイトルのニッケルは5セント、ダイムは10セント硬貨のことで、「小額の金銭しか与えられない」という意味だと訳者あとがきで説明されています。

 コラムニストである著者は、低賃金労働者のなかに入っていき、自分で働きながらその世界を経験します。世界一豊かな国・アメリカの文字通り最底辺で働いたルポルタージュですが、2001年に刊行され、翻訳が出た時点でミリオンセラーとなっています。著者がウェイトレス、掃除婦、スーパーの店員として働いた日々を克明に記した内容で、博士号をもつ彼女は単純労働が想像以上に大変であることを総括として綴っています。

 いわゆるワーキング・プアと呼ばれる働く貧困層の固定化が進み、私たちがすぐに思い浮かべる「アメリカン・ドリーム」がすでに困難になっている現実が描かれています。アメリカというとすぐにシリコンバレーの成功物語を思い浮かべますが、住む所にも困っている最下層の労働者がこれほどいるのだという重い現実を知りました。

 ニューヨークで出版社回りをしていた時に、若いタクシー運転手から「少なくとも、少なくとも、あなたはここに来られる。ぼくは外国旅行なんか絶対にできないんだ」と言われたことを思い出しました。GAFAなどという華々しい企業の成功物語から取り残されたアメリカ人もたくさんいるのです。移民国家としてのアメリカはいまも年に100万人を受け入れていますが、トランプ大統領を支持するような貧しい人たちの気分というものも、この書を読むと分かるような気がします。21世紀初頭に書かれた内容は、今日性をいささかも失っていません。

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筆者

駒井 稔

駒井 稔(こまい・みのる) 編集者

1979年、光文社入社。1981年、「週刊宝石」創刊に参加。1997年に翻訳編集部に異動になり、書籍編集に携わる。2004年に編集長。2年の準備期間を経て2006年9月に古典新訳文庫を創刊。「いま、息をしている言葉で」をキャッチフレーズに古典の新訳を刊行開始。10年にわたり編集長を務めた。筋金入りの酔っ払いだったが、只今禁酒中。1956年、横浜生まれ。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです