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『日本国紀』に流れ着く誤読と誤記の産物

早川タダノリ 編集者

「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝(左)と西尾幹二、高橋史朗=2001年「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝氏(左)と西尾幹二氏(中央)、高橋史朗氏=2001年

「十二月八日」をめぐる誤読のトホホ

 1995年に刊行された、歴史・検討委員会編『大東亜戦争の総括』(展転社)という本がある。1993年に、当時の細川護煕首相が「大東亜戦争」について「私は侵略戦争であった、間違った戦争であったと認識している」と発言し、これに反発した自民党内右派議員が集まって作ったのが、編者としてクレジットされている「歴史・検討委員会」であった。

 この委員会は、「侵略戦争」論を否定して「アジア解放戦争」であったと位置づけ、「東京裁判」によって強制された「自虐史観」を払拭することを目指したもので、江藤淳、西部邁、松本健一、岡崎久彦から中村粲、田中正明、名越二荒之助、中島慎三郎らを講師に招いた20回にわたる「委員会」を開催した。この委員会には若手自民党議員として安倍晋三らも参加しており、俵義文氏が指摘しているように、戦前世代の議員の歴史認識を安倍ら若手議員に引き継ぐという役割も果たした。この『大東亜戦争の総括』を踏み台として、やがて「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が右派議員によって結成され、それが「新しい歴史教科書をつくる会」などの運動につながってゆく。1990年代なかばからはじまった歴史修正主義運動の一つの出発点となったものである。

東京医科歯科大名誉教授・総山 孝雄東京医科歯科大名誉教授も務めた総山孝雄氏
 この委員会で講演した論者の一人が総山孝雄だ。総山は近衛師団の将校としてインドネシアで終戦を迎え、戦後は東京医科歯科大学の教授を務めた人物。彼が林健太郎への批判として発表した「人種戦争としての二〇世紀前半のアジア史」(『正論』1994年6月号)では、「大東亜戦争」は「白人」のアジア支配への抵抗として描かれ、「日本が国の存亡を賭けた大東亜戦争によって、人類平等への歴史の新しい流れが出来てしまった。そして新しく組みなおされた国際連合において、先の国際連盟が否決した『人種平等』が、綱領の一つに掲げられるに至ったのである」と述べている。〈日本はアジアを解放した〉論者の中でも、モロに「白人」を敵として措定する、よりレイシズム色が強い論者だった。

 『大東亜戦争の総括』には、この総山の報告「弱肉強食から平等共生の時代へ――西欧のアジア侵略と大東亜戦争の意義」が収められているが、ここにククリット・プラモート記事が登場していた。

そういうふうに当初はアジア各国の人が全て日本人に感謝しておった。タイ国のククリット・プラモードという人は、もともとジャーナリストでありまして、タイ国の総理大臣もやった方ですが、この方が十二月八日の新聞の社説に、「いまアジアの人々が白人と対等に口がきけるようになったのは、日本というお母さんが、危険をおかしてアジアにたくさんの独立国を生んでくれたおかげである。この十二月八日は日本というお母さんが難産で死にそうになりながら、われわれを助けてくれた悲壮な決意の日であるということを、アジア人は決して忘れてはいけない」。そういうことを新聞の社説に書いております。(歴史・検討委員会編『大東亜戦争の総括』展転社、1995年、64頁)

 「当初はアジア各国の人が全て日本人に感謝しておった」という彼の前置きも、例によって大日本帝国のプロパガンダと彼の情緒的信念とが渾然一体となったシロモノだが、〈感謝される日本〉を裏付ける証拠として、件のククリット・プラモート記事が活用されていることがよくわかる。

 ここでは名越が記事のタイトルとして示していた「十二月八日」が、「十二月八日の新聞の社説」ということになっている。「十二月八日」が主題なのだから掲載されたのは12月8日なんだろうという雑な思い込みによるものか、明らかに総山の誤読によるものだろう。

 とはいえ、ククリット・プラモート記事を「十二月八日」掲載としてしまったことは後世に禍根を残すことになった。総山の誤読が二十数年の時を経て、百田尚樹『日本国紀』にまで流れ着くのであった。

学校に入り込む「日本というお母さん」記事

 この『大東亜戦争の総括』は、1990年代後半から猖獗(しょうけつ)を極めた歴史修正主義のさきがけであったが、この右派運動をさらに広めたのが、藤岡信勝と自由主義史観研究会による『教科書が教えない歴史』(産経新聞ニュースサービス、1996年)だった。

 シリーズ全体で120万部を売り上げたという同書の第1巻に、ククリット・プラモート記事が登場している。

日本の戦いを絶賛したタイの首相
 ……しかし、日本軍の初期の戦果はそれまでの常識をはるかに超えるものでした。タイの首相になったククリット・プラモートが新聞記者のころに「十二月八日」と題した記事を書いています。
 「日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米・英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。十二月八日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大な決心をされた日である。われわれはこの日を忘れてはならない」(サイヤム・ラット)
 日本が英米蘭に対する戦争を決意したのは、第一には自国の自存自衛のためでした。しかし、この戦争はそうした意図にとどまらず、一時的にせよアジアから欧米列強の植民地支配の勢力を追い出す働きをしたのです。今でも、アジアの国々の心ある人々はそれを忘れていないのです。(入川智紀) (『教科書が教えない歴史』、191―192頁)

 このパートを執筆した入川智紀は、当時、日本会議の

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