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『ヒズ・ガール・フライデー』拡大『ヒズ・ガール・フライデー』 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:His_Girl_Friday_still_2.jpg 

 これまで述べてきたように、ハワード・ホークスの映画に登場するヒロインは、男勝りで行動的で、女性優位の表象のような存在だ。では、そうした<ホークス的女性>は、男女をめぐる伝統的な価値観をラディカルに転倒するヒロインと考えるべきなのか。

 必ずしもそうとは言えないだろうが、このあたりの事情は、フェミニズム理論を専門とする映画研究者・斉藤綾子が、繊細に分析している。斉藤はこう述べる――「『ホークス的女性』は通常のヒロイン像とは違う。彼女は独立心が強く、ロマンスが命ではない。男に媚びたり、頼ろうなんて思いもしない。かまととぶったり、涙で同情なんて買わない。(……)さらに行動的で、知的でもあり、その上自らのセクシュアリティにも不安を持っていない。自分の肉体的な魅力をよく知っているのだ。そして、ヒーローを性的に挑発することも恐れない。(……)要するに彼女たちは規範的な『女らしさ・美』を持っているにもかかわらず、それを売り物とはせずに男社会に受け入れられる存在である」(斉藤綾子「男性か女性か、それが問題だ:ホークスのジェンダー力学」、『ハワード・ホークス映画祭カタログ――ハリウッド伝説』所収、東京国立近代美術館フィルムセンター、朝日新聞社編、1999)。

 この斉藤の論考のポイントは、<ホークス的女性>は独立心が強く行動的であるにもかかわらず、男社会のものである<規範的な「女らしさ・美」>を持っている(抜群の美人であるということが、<ホークス的女性>たる必須条件である)、ということだ(斉藤は、そうした、ホークスにとっての理想的なヒロイン像として、ローレン・バコール演じるフィルム・ノワール『三つ数えろ』(1946、傑作、東京・シネマヴェーラ渋谷の特集で上映)のヴィヴィアン、同じく『脱出』のマリー、そしてアンジー・ディッキンソン演じる西部劇『リオ・ブラボー』のフェザーズを挙げている)。

 そして斉藤によれば、ローレン・バコール自身、興味深いことに「ホークス的女性」についてこう語っているという――「ホークスが一番評価したのは私の外見ではないか」、と。さらにバコールは、「ホークスがシックでセクシーな女性を好み」、「『こぎれいで、男っぽい服装』の女性を好んだ」と語り、それはつまり「ラルフ・ローレン的女性」であり、「ホークスにとって私は(……)究極的な装飾品であり(……)、重要なのは私自身ではなく、私の外見だった」、と(前掲書)。このバコールの言葉は、<ホークス的女性>をめぐる、非常に微妙な“急所”に触れているが、つまるところ斉藤は、フェミニズムの視点からすれば、<ホークス的女性>が男に媚びない独立心の強い行動的な、いわば“マスキュラン(男性的)”なヒロインであろうと、例外なく「容姿端麗」である彼女らは、あくまで男性的な価値観・規範を内面化し、あるいは体現している女性たち、すなわち、男性共同体に受け入れられることでアイデンティティを承認される存在だ、と結論づける。

 まあ、多分に退嬰(たいえい)的な男性的価値観に毒されている私などは、こうした急進的な見解には、説得されそうになりつつも、ややたじろいでしまうというのが正直なところだが、ホークス映画におけるジェンダー(男女の性役割)の逆転劇を中心に論じる斉藤の、「<ホークス的女性>は確かに男性のファンタジーとして考えられるが、同時に、女性にとってもこの上なく魅力的なファンタジーも提供したのだ」、という指摘を読むと、そう、しょせん映画は男女の<ファンタジー>を描くものなのだと得心し、なんだかホッとする(ホークスがスクリューボール・コメディの傑作群において、男らしさを誇示する“マッチョイズム”を突き崩した点は痛快だと思うが、ホークスは別段ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)の観点から“マッチョイズム”を失効させたわけではなく、ただ面白いからそれをやったにすぎないだろう)。

 もっともホークスの“美人主義”は伝統的なイデオロギーに制約されたもの、すなわち“ルッキズム/外見至上主義”ではないかとの反論は予想されるが、つまらない理屈である。ちなみに斉藤の、『ヒズ・ガール・フライデー』で元妻ロザリンド・ラッセルの婚約を破棄させ彼女を奪還するケイリー・グラントは、『赤ちゃん教育』でグラントの婚約をぶち壊すキャサリン・ヘプバーンの男版ではないか、という推論は的を射ていると思う(前掲論考)。つまり、物語、ギャグ、キャラクター造形のパターンを涼しい顔で繰り返し使い回したホークスは、『ヒズ・ガール・フライデー』で『赤ちゃん教育』の男女のキャラクターを――むろんポリティカル・コレクトネスなどとは無縁に――入れ替えることで、ジェンダー規範の二重の逆転(!)をやってのけたのではないか……。

 また斉藤は、『赤ちゃん教育』のヒロイン、スーザン/キャサリン・ヘプバーンについて、彼女は<ホークス的女性>が潜在的に持っている「ジェンダー批判を顕在化した」(前掲書)、と述べているが、それは当を得ているだろう。しかしながら、『赤ちゃん教育』のスーザンや『ヒズ・ガール・フライデー』のグラントのエキセントリック/スクリューボールな振る舞いも、異性間のロマンチック・ラブ――<恋愛→結婚>――という伝統的な性規範にのっとっていることを忘れてはならない。ホークス作品に限らず、古典的スクリューボール・コメディの多くは、いかに奇天烈であれ、結婚をゴールとした異性愛者の恋愛喜劇なのである。

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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

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