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百田尚樹氏が記載した出典の現物を入手

早川タダノリ 編集者

1941年12月8日、日本軍はタイに平和進駐した拡大1941年12月8日、タイに進駐した日本軍

オリジネーターによるまとめ

 1990年代後半からの日本における歴史修正主義の台頭とともに拡散された、ククリット・プラモート「日本というお母さん」記事。この記事を「発見」し世に送り出した名越二荒之助(なごし・ふたらのすけ)は、「大東亜戦争で日本がアジアを解放した」論を集大成的に正当化してゆく大部の書籍を刊行する。1999年から刊行された『世界に開かれた昭和の戦争記念館』シリーズ全5巻(展転社)は、写真と解説記事を中心に、

これまで昭和の戦争は、日本の立場を見失い、否定的側面ばかりが強調された。しかし調べてみれば、感動の秘話の宝庫である。史実や資料の羅列でなく、そこに至る国際的背景や脈絡を明らかにし、日本が歩んだ感動のドラマを重視する。

 というコンセプトのもとに編まれたものであった。最初から「感動のドラマ」に仕立て上げる気マンマンだったのである。

 このシリーズの第4巻『大東亜戦争その後』に、名越自身の筆による、ククリット・プラモート記事についての“詳細な”解説が登場した。

 名越は、「大東亜戦争」末期のタイ駐留軍司令官・中村明人が、1955年にタイを訪問したところから説き起こしている。

敗戦で問われた駐屯の真価
「ほとけの司令官」中村明人
 昭和三十年六月九日、タイのドムアン飛行場に降り立った日本人一行は、出迎えた同国顕官をはじめとする群衆から大歓迎をうけた。
 一行とは、その十年前にタイ駐屯軍司令官であった中村明人・元陸軍中将と夫人、元参謀や秘書の旧幕僚五名である。
 タイ国警視庁貴賓として招待された中村元将軍の一行は三週間の滞在中、連日の歓迎攻勢をうけるが、かつての駐屯軍司令官はなぜに、これほどの歓待をもって迎えられたのか。当時、同国の最有力な言論人であったククリット・プラモード(後に首相)は、「友帰り来る」と題して次のように現地の週刊誌で述べている。
 「占領軍の司令官が、彼の軍隊が戦時中占領していた、そして戦い終えて去って行ったところの国民から、赤誠あふるる友情と真心こもる愛情とをもって、かくのごとき盛大な歓迎を受けるのは実に稀なこと、否、人類史上全く前例を見ないことではあるまいか」(119頁)

 ここで紹介している中村明人のタイ訪問を、日本で記事にしたのは田中正明だった。『日本週報』1955年9月15日号に掲載された「日泰親善秘話――浦島太郎になった陸軍中将」がその記事。ここで紹介されているククリット・プラモートのエッセイ「友帰り来る」は、中村の著書『ほとけの司令官――駐タイ回想録』(日本週報社、1958年)に全文が掲載されている。

 実は名越が引用した文に直属して、ククリット・プラモートは次のように続けていた。

 第二次世界大戦中、並びに大戦後、日本帝国陸軍は数多くの残ぎゃく、かつ非人道的罪に問われた。かかる帝国陸軍の事に関しては、すでにそれ自体一巻の書を形成するに至っている。
 もしも語り伝えられているこれらの言語道断な物語の数々が真実であったとするならば、ただ一人の反対者の怨恨の声もなく、高度の賛辞をもって歓迎された氏のタイ国訪問は、実に例外中の例外を、これらの物語に附したものというべきである。(中村明人『ほとけの司令官』、204頁)

 日本帝国陸軍の「数多くの残ぎゃく、かつ非人道的罪」をふまえた上で、今回の中村のタイ訪問が歓迎されたことは「例外中の例外」であると述べていたのだった。

 この中村のタイ訪問も、単純に、かつての「ホトケの司令官」が再びタイに温かく迎えられた……とストレートに受け止めるのは、東南アジア為政者の政治手腕をあまりに甘く見るものだろう。戦時中、タイ国内で軍費を調達するために設けられた「特別円」勘定の精算について、日タイ間の交渉が妥結したのは同年4月9日のことだった。同年7月に「日タイ特別円協定」の調印式を控え、日タイの「和解」を演出する政治的セレモニーと見るのは穿(うが)ち過ぎだろうか?

 ところで、名越は中村訪タイを述べた上で、ククリット・プラモート「日本というお母さん」記事を次のように紹介している。

 タイ駐屯軍司令官であった中村明人・元中将を、昭和三十年にタイが国賓待遇で招待した時に、「人類史上全く前例を見ないこと」と感動を筆にした同国のオピニオン紙「サイヤム・ラット」主幹であるククリット・プラモードは、当時もう一つ日本人にとって心に銘記すべき一文を同紙に発表している。
 「十二月八日」と題された署名記事の十二月八日とは、いうまでもなく大東亜戦争開戦の日である。
 「日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。十二月八日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決心をされた日である。われわれはこの日を忘れてはならない」(名越二荒之助編『世界に開かれた昭和の戦争記念館』第4巻「大東亜戦争その後」展転社、2000年、126頁)

中村明人(軍人) 愛知県出身。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。陸軍少将(=写真)、1939年陸軍中将。憲兵司令官、泰国(タイ)駐屯軍司令官などを歴任。戦後、戦犯となったが不起訴釈放。財団法人日・タイ協会副会長拡大中村明人陸軍中将。タイ駐留軍司令官などを歴任し、戦後は財団法人日・タイ協会副会長を務めた
 この記述もまた曖昧なものである……が、従来の名越文献にはなかった要素が、掲載紙を「サイヤム・ラット」紙と確定したことだろう。掲載紙がはっきりしたのなら、記事の掲載日もわかりそうなものだが、またしても名越は黙して語らなかったのである。ともあれこれが、ククリット・プラモート記事を世に送り出したオリジネーターによる、最終的な公式(?)引用となったのである。

 名越二荒之助は2007年に亡くなる。しかし名越没後も、「日本というお母さん」記事は拡散を続けた。なかでも、名越の生前から親交があったという井上和彦は、その著書の中で「日本というお母さん」を何度も紹介しているのが特徴的だ。

 例えば井上の『日本が戦ってくれて感謝しています――アジアが賞賛する日本とあの戦争』(産経新聞出版、2013年)では、「はじめに」(6―7頁)のみならず、本文(250―251頁)と、同じ本の中で二度も登場している。とくに本文では、先に見た名越『世界に開かれた昭和の戦争記念館』から、中村明人のくだりも含めて紹介している。

 以降、井上は、別冊宝島2606『封印された日本軍の功績』(宝島社、2017年)、『産経新聞』2016年11月22日付「正論」などなど、いろいろなところで「日本というお母さん」記事を宣伝して回っている。

 このククリット・プラモート記事を彼が活用するのも、「アジア諸国から感謝された日本」像をつくりあげることにある。「日本というお母さん」記事を引用するにあたり、こんな一文を彼は付け加えている。

 だが、実際にかつての戦場を歩いてみれば、むしろ欧米諸国の植民地支配から解放してくれた日本軍に対する感謝と賞賛の声、大東亜戦争の功績を讃える声が満ち溢れているのである。
 私が歩いたタイの首都バンコクでは、王宮付近で日本軍の九五式軽戦車に出くわし、日本とタイが同盟国として共に米英と戦った事実を知って衝撃を受けた。
 タイ王国のククリット・プラモード元首相は、次のように書き記していた。(井上和彦『本当は戦争で感謝された日本――アジアだけが知る歴史の真実』PHP文庫、2018年、4頁)
 しかしだからといって当該国の人々が、果たして今日に至るまで日本および日本軍兵士を恨みつづけているのだろうか。
 それは大きな間違いである。はっきり言おう。当時、多くのアジアの人々は日本軍を大歓迎し、とりわけ欧米列強の植民地支配に苦しめられてきた東南アジアの人々は、宗主国の軍隊を次々と打ち倒してゆく日本軍の姿に拍手喝采したというのが事実なのだ。
 その結果、多くの植民地諸国は独立することになったではないか。そして多くの国々では戦後もそうした日本の偉業を讃え、感謝の声はいまも色あせることはない。(『日本が戦ってくれて感謝しています』6頁)

 大日本帝国が仕掛けた植民地争奪戦を、アジアの人びとは「欧米からの解放」として歓迎した――「日本というお母さん」記事は、名越文献における登場以来、一貫してその物語を補強する材料として活用されてきた。すでに戦時下・そして戦後と対アジア工作に携わった大アジア主義者たちは退場したものの、こんどは「自虐史観」の克服を叫び「日本は悪くなかった」とくりかえす歴史修正主義者たちが、その物語を語り始めた。そしてその物語は、戦時下の大日本帝国が流布した「アジアの解放者としての日本」像をトレースするものでしかなかったのである。

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筆者

早川タダノリ

早川タダノリ(はやかわ・ただのり) 編集者

1974年生まれ。国民統合の技術としての各種イデオロギーに関心を持ち、戦前・戦時の大衆雑誌や政府によるプロパガンダ類をはじめ、現代の「日本スゴイ」本などを蒐集。著書に『「日本スゴイ」のディストピア――戦時下自画自賛の系譜』(朝日文庫)、『神国日本のトンデモ決戦生活』(ちくま文庫)、『「愛国」の技法――神国日本の愛のかたち』(青弓社)、『原発ユートピア日本』(合同出版)、『憎悪の広告――右派系オピニオン誌「愛国」「嫌中・嫌韓」の系譜』(合同出版、能川元一氏と共著)、『まぼろしの「日本的家族」』(青弓社、編著)などがある。