少女はなぜ、松本清張に惹かれたのか?
映画監督・石山友美さんが読みとく、清張が魅力的な悪女を描いたわけ
前田礼 市原湖畔美術館館長代理/アートフロントギャラリー
清張はどうして悪女たちを描いたのか

清張の女性への視点について語る。
石山さんがとりわけ興味をもったのは、そこに登場する女性たちの描かれ方だった。女性たちの社会進出は、戦争で男たちが戦場へと駆り出されるなか、労働力不足を補う形で促された。男性に助けてもらう存在ではなく、戦中・戦後をたくましく主体的に生き、時に「悪女」とも呼ばれる女性たち。
『ゼロの焦点』で、それは米軍基地のあった立川で売春婦をしていた過去をもつ、金沢の名流夫人であり、主人公は、自ら夫の過去を知ろうと「探偵」のように夫の足跡をたどる新妻である。他にも、『黒皮の手帖』『けものみち』『疑惑』など、強烈な生命力と野心にあふれた女性が登場する作品は多く、繰り返し映像化されている。
1909(明治42)年生まれの松本清張は、家が貧しかったため、小学校卒業と同時に仕事をはじめる。給仕、印刷工など職を転々とし、やがて朝日新聞西部本社の広告部意匠部に入社、版下画工として働いた。その鋭い観察眼を活かしたイラストは巧みで、全国ポスター展で入賞するほどだった。生活のために書いた懸賞小説で入選、デビューを果たしたのは41歳だった。
デビュー作の『西郷札』はいきなり直木賞候補になり、『或る「小倉日記」伝』(1953年)で芥川賞を受賞する。以来、1992年、82歳で亡くなるまでの40年余り、古代から現代、長篇小説、短篇小説から、評伝、ノンフィクションまで、千篇に及ぶ膨大な作品を残した。

江戸川乱歩、宮沢賢治、遠藤周作、大江健三郎、水村美苗、ボードリヤールなど、石山さんの愛読書は幅広い。
しかし、清張はベストセラー作家になっても、文壇ではなかなか認められなかった。1963年、中央公論が文学全集『日本の文学』を刊行する際、選考委員の川端康成と谷崎潤一郎は清張を入れることに同意したが、三島由紀夫は猛反対し、結局、清張の巻は見送られた。三島は清張の作品を文学とは認めなかった。理由を聞かれ、「文体がない」と切り捨てている。
そんなエリートに鬱屈した思いを持つ、苦労人の清張だからこそ、社会で差別される側の存在である女性に共感したのではないか、と石山さんは言う。同じく男性ファンの多い同時代の作家、司馬遼太郎の小説に登場する女性が、魅力的ではあるけれど、男性のヒロイズムを補完するような存在であるのに対し、清張の女性たちは、がむしゃらで、泥にまみれながらも、自分の意思で生きていく、男性社会、そして運命に抗(あらが)う存在として描かれる。
それが、少女の石山さんに鮮烈な印象を残した。
皇后、女性天皇についても研究

『昭和史発掘』(文庫新装版は全9巻)は、1964年から1971年まで『週刊文春』に連載された。
清張には、『昭和史発掘』や『清張通史』などの多くの歴史研究の著作があり、その成果は作品に存分に注ぎ込まれた。「ヒストリー」と「ストーリー」は同じ語源であり、個人のストーリーを描くことが社会、ひいては国家を描くことになる――。それが清張の文学なのだ。そして、歴史のなかで女性がどう存在していたかは、清張のテーマのひとつであった。男が日本をつくってきた、という男性中心の歴史観とは異なる歴史観を、清張はもっていたと石山さんは言う。
清張は、タブーとされていた天皇制の問題にも踏み込んだ。皇后、女性天皇についても研究し、それを未完の遺作『神々の乱心』に昇華させようとしている。
皇室を乗っ取ろうとする謎の宗教団体の教祖の野望を描いたこの小説には、まさに「悪女」とも言える宮中の女性たちが登場するのだが、政治思想史家・原武史さんは『松本清張の「遺言」―『神々の乱心』を読み解く』において、「天皇や皇族を直接的に登場させるのではなくて、あくまでも元女官や女官などを登場させながら、「お濠(ほり)の内側」の世界を垣間見せるという手法をとったように思います」と述べている。
市井に生きる、さらには歴史をも動かす、さまざまな悪女たちを、清張はフィクションの世界で描いたのだ。
読書会の後半では、清張も好きだった「フィルム・ノワール」(1940~50年代のアメリカで製作された犯罪映画)に登場する「ファム・ファタール(運命の女)」=悪女たちにまで話は及んだ(清張自身、映画やテレビの企画制作を目的としたプロダクションを自ら立ち上げている)。映像を交えながら、まさに映画監督・石山さんならではの視点で紹介される悪女たちに、参加者の興味は尽きることがなかった。