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ドミンゴの遊び心が生んだ手のひらの上の妖精

秘話で綴るクラシック演奏家の素顔(1)「私の中にはアイデアが詰まっている」

伊熊よし子 音楽ジャーナリスト・音楽評論家

LeDarArt/shutterstock.com

こぼれ話、取材秘話を書きます

 長年、クラシックのアーティストにインタビューや取材を続け、新聞や音楽専門誌、一般誌、情報誌、WEBなどに記事を書いてきた。そうしたインタビューのなかで、とりわけ印象に残っている人、話の内容がおもしろい人、音楽と同様に素顔がとても興味深い人、演奏がいつまでも心に残るほどすばらしい人などを選び、35人のアーティストを1冊の本にまとめてみた。

 『35人の演奏家が語るクラシックの極意』(学研プラス)。偉大なる巨匠から中堅の実力派、これから大海原に漕ぎ出していくであろう未知なる魅力を秘めた新人までじっくり厳選し、長年インタビューで聞き込んできた話を演奏を交えながら紹介している。

 だが、インタビューや取材記事というのは、聞いた話のほんの一部しか書くことはできない。新聞や雑誌の場合は文字数が決まっており、ほとんどが新譜情報やコンサートについてなどに費やされる。取材のときにふと見せたアーティストの素顔などは記事として生かされることはなく、埋もれたままの状態になってしまう。

 もったいない……。

 そこで、「論座」で、単行本に書くことができなかったアーティストのこぼれ話、取材秘話に焦点を当て、その素顔や隠れた魅力などを何人か紹介していくことにした。まずは、偉大なる歌手、プラシド・ドミンゴだ。

ダークスーツで決め、オペラハウスのロビーに

プラシド・ドミンゴ ©Sheila Rock/DG
 ドミンゴには長年インタビューを続けているが、2016年9月18日に彼が総監督を務めるロサンゼルス・オペラで話を聞いたときは、非常に印象深かった。

 なぜなら、彼は前日の17日に初日を迎えたヴェルディのオペラ「マクベス」で主役をうたい(この役はテノールではなくバリトン)、その夜は初日ならではのパーティが深夜まで続けられ、ドミンゴは最後のお客さまが帰るまでずっとホストを務めていたからである。

 私のインタビューは翌日18日のお昼すぎ。関係者はみな「きっと無理だよねえ、今日の明け方までパーティがあったのだから。大幅に時間がずれると思いますよ」と話していた。

 ところが、ドミンゴは午後1時半にはビシッとダークスーツで決め、元気にインタビュー会場であるオペラハウスのロビーに現れたのである。

 「やあ、わざわざ日本から来てくれてありがとう。今回は、来年の日本公演の話が中心なんだっけ?」

「膝を曲げて小さくなってくれ」

 ドミンゴはソプラノのルネ・フレミングとともに2017年3月、たった1夜のデュオ・コンサートのために来日することになっていた。これはその事前の記事展開のためのインタビューであり、撮影を含めて2時間ほど時間をもらっていた。

 他の撮影や取材もあり、それから4時間というもの、ドミンゴは私たちの要求に応え、ずっと笑顔で対応してくれたのである。途中でタキシードにも着替えてもらい、さまざまな撮影を行った。

 しかし、やはり疲れが出たのか、同じポーズを何度も取ったり、撮影が長引いてきた段階で、ちょっと飽きたような表情を見せた。それでも撮影は続いていた。

 そのときである。

 私は自分のインタビューか終わり、日本に連絡をするためにドミンゴから少し離れたところで携帯でメールを送っていた。すると向こうから大きな声が聞こえてきた。

 「Yoshiko、その場で膝を曲げて小さくなってくれ。横を向いて、前かがみになってくれないか。天使や妖精のようにおだやかに笑いながら、ちょっとこっちを向いてみて。そうそう、もっと小さくなって、もっともっと。いま、私はひとつのアイデアを実現しようとしているんだよ。私の手のひらにきみが乗っているような写真を撮りたいんだ」

得意満面のドミンゴ

 最初は、何をいわれているのかまったくわからなかった。ドミンゴは私からかなり離れたところで横を向きながら膝を折り、両手を前方に出して手のひらを上に向け、何かが乗っているようなポーズをとっている。

 カメラマンは私とドミンゴの距離と同じくらい離れたところで、ドミンゴにカメラを向けている。

 要するに、3者の距離が離れている関係で、ドミンゴの手のひらの上に私が乗っているような形の写真が撮れるというわけだ。

 「ほら、おもしろいだろう。私の手の上できみがちっちゃな天使か妖精のように踊っているんだよ。すごいアイデアだろう。こっちに来て写真を見てごらん。カメラマン、私、きみの距離が等間隔で空いていることにより、こういう不思議な絵が生まれるんだよ」

 ドミンゴは得意満面な表情で写真をながめ、自画自賛していた。彼は同じポーズを取って撮影していることに疲れたのだろう。遊び心がむくむくと頭をもたげ、こんなイタズラを思いついたのである。

 この写真はもちろん新聞や雑誌など公に発表できるものではなく、お蔵入りになってしまったが、私の仕事部屋にはしっかり飾らせてもらった。ドミンゴの遊び心を垣間見ることができるひとこまだから…。

とことん話し合い、よりよい演出を見いだす

プラシド・ドミンゴ
 ドミンゴは、常にいろんなアイデアをもっている。オペラの演出家が「このアリアのときは、こういうポーズで」と要求すると、納得いかない場合はとことん話し合い、本当にその作品に必要な演出なのか、もっと他の方法もあるのではないかと話し合い、よりよい演出を見いだしていく。

 「私のモットーは、お客さまがそのオペラを自然な形で楽しめること。奇想天外な演出は、作品本来の姿から離れてしまう。でも、もちろん私は演出家ではないし、その道のプロが提案している限り、できるだけその意図に沿うよう努力はしていますよ。ただし、これだけ長くオペラをうたっていますからね。私のなかにはアイデアが詰まっているんですよ。ですから、ちょっとだけ意見をいうわけです」

 ドミンゴの遊び心は、長年の経験から生まれたもの。カメラのマジックによる手のひらの上の妖精は、いたずら好きなドミンゴのちょっとした思い付きである。(敬称略)