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ジャン=リュック・ゴダール監督(仏)。彼が4年がかりで完成させた新作『イメージの本』拡大ジャン=リュック・ゴダール『イメージの本』の公式サイトより

 88歳を迎えたジャン=リュック・ゴダール監督(仏)。彼が4年がかりで完成させた新作『イメージの本』は、観客の視聴覚をひっきりなしに惑乱するような、斬新で美しいフィルムだ。何より、様々な映画、テキスト/文章、絵画、音楽の断片が引用され、コラージュ(切り貼り)される情報量がすさまじい。

 また、引用される映画や絵画はしばしば、画質が劣化したVHSテープの映像のような“汚し”が意図的にかけられ、被写体は輪郭がぼやけたり歪んだり、あるいは艶(つや)を消されたり脱色させられたり、逆に毒々しい原色が塗られたりして、奇妙なマチエール(質感)を放つ。むろん、そうした手法自体は、彼の十八番(おはこ)ではある。だが、ゴダール自身のナレーションを伴う『イメージの本』では、コラージュの手法が全編を覆うまでに徹底される。その点で本作は、ゴダールの引用&コラージュ手法(“切り貼りメソッド”)が極限まで追求されたパッチワーク映画だと言える。

 いやそもそも、『イメージの本』は「映画」なのか。かりに「映画」であるとしても、このフィルムは、<究極の/最後の映画>と呼ぶべきではないか。なぜなら、全編が引用のコラージュである『イメージの本』では、引用された映画断片の中以外に俳優/人物、ひいては人間は登場しないからであり、したがってまた、大胆な3D技法を導入した“革命的”な前作、『さらば、愛の言葉よ』(2014)までのゴダール映画では辛うじて読み取れた物語性が、ゼロだからである。その意味で『イメージの本』は、映画が映画でなくなるギリギリのところで危うく成立している映画、すなわち<究極の/最後の映画>と呼べるのではないか(だから、『イメージの本』が<最後の映画>であるというのは、かならずしもゴダールのフィルモグラフィ最後の映画である、という意味ではないし、ゴダールがこの先、新たな<最後の映画>を撮り上げる可能性は十分にありうるだろう。断言はできないが……)。

 もっとも『イメージの本』は、「構成」らしきものを全く欠いているわけではない。映画研究者・堀潤之(ほり・じゅんじ)の言うように(ブログ“les signes parmi nous”2019・5・11)、プロローグ/序章+6つのパートに分けられている――6つのパートは、「1 リメイク」、「2 ペテルベルク夜話」、「3 線路の間の花々は旅の迷い風に揺れて」、「4 法の精神」、「5 中央地帯」、「6 幸福のアラビア」である。そして各パート間の主題における関連性は希薄だが、それらの内容を大まかに記してみよう(以下の記述は、いま触れたブログも参照している)。

シンプルで過激な“切り貼りフィルム”

 「1 リメイク」は、ゴダール自身の過去作、やはりコラージュの手法が前景化した『ゴダールの映画史』(1988-98)の作風の再利用、ないしはリブート/再起動であり、彼の偏愛や関心の対象である映画の断片が、引用&コラージュされる。たとえば、ロバート・アルドリッチの『キッスで殺せ』(1955)、ゴダール自身の『新ドイツ零年』(1991)、フリードリッヒ・W・ムルナウの『最後の人』(1924)、ニコラス・レイの『大砂塵』(1954、後述)、ピエル・パオロ・パゾリーニの『ソドムの市』(1975)、リドリー・スコットの『ブラックホーク・ダウン』(2001)、ゴダール自身の『カラビニエ』(1963)、スティーブン・スピルバーグの『ジョーズ』(1975)、アルフレッド・ヒッチコックの『めまい』(1958)、ジャン・ヴィゴの『アタラント号』(1934)、セルゲイ・エイゼンシュテインの『イワン雷帝』(1944-46)、などなどである。

 もちろん、これらの映画断片のコラージュを観ても、教科書的な映画史を学べるわけではない。『映画史』同様、予想外の文脈に挟み込まれた――つまり<異化>された――様々な映画の断片を観るわれわれは、かつて観た映画の記憶を呼び覚まされ、それらの映画を再見したいと切に思う(未見の映画はぜひとも観る機会を得たいと思う)。ちなみに、『映画史』もほとんどの部分が映画断片のコラージュから成っていたが、沈鬱な声でぶつぶつ喋りながら再生機や編集機に向かうゴダール自身の映像やタイプライターの打刻音が含まれていた。その点で、全編がほとんどコラージュ+ナレーションだけの『イメージの本』は、よりシンプルで過激な“切り貼りフィルム”だと言えよう。

 そして、本作の主要モチーフのひとつが「手」であることが、冒頭のゴダールのしゃがれ声のナレーションによって告げられる――「5本の指があって、指が合わさると手ができて、そして人間の真の条件とは手で考えることだ」。やや謎めいてはいるが、堀潤之も言うように、このエピグラフめいた言葉は、『イメージの本』が「手で考える」フィルム、つまり手作業による編集=コラージュ=サンプリングのフィルムであることを端的に告げる、いわば“キーフレーズ”だ。

 実際、「1 リメイク」に先立つ序章的な部分では、ダ・ヴィンチ作の「洗礼者ヨハネ」の天を指し示す指のアップが引用され、ついで、フィルムの断片を編集する手が映し出されるが、それはゴダール自身の傑作『ゴダールのリア王』(1987)からの引用で、手の主はゴダールではなく、ウディ・アレンである(アレンは『ゴダールのリア王』で、映画の編集技師エイリアン氏を演じた)。そして以後、この序章的なパートでは、あれやこれやの手の映像――ジャコメッティの彫像の手など――がモンタージュ(編集)によってコラージュされていく。

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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

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