2019年06月10日
本屋さんも大好きだけど、図書館も好きだ。特に私の地元、横浜市立中央図書館がたまらない。レンガ調で六角形を組み合わせたユニークで都会的な外観、エントランスの空間はとても高くまで吹き抜けになっていて、まるで神殿のよう。階段を登って中に一歩足を踏み入れると……そこから雰囲気が一転、なぜか薄暗い。天井には雨なのか何なのか、シミもある。装飾はなく、下に敷かれたじゅうたんや机、いすなどに築25年相応の味を感じさせる。ひとことでいうと、あまりきれいではない。
だけど、私はここに来るといつもワクワクしてしまう。というのも、この図書館の蔵書が半端ではないからだ。調べ物をしていて気づいたのだが、探している本がないということはめったにない。
私のいる編集部は、教養的な書籍を作ることがあり、資料調べに行くことがたびたびある。今では事前にパソコンやスマホで蔵書が調べられるので、そのあとから行くことが多いのだが、中央図書館ではない本の方が珍しいのだ。刊行が古い本や地方の小さな出版社が作った本、絶版になっている本、大学出版会が出した1万円以上する専門書などなど、検索すればだいたい出てくる。都内の図書館に蔵書がないときでも、中央図書館で検索するとたいていある。
以前この話を同僚にしたら、
「歴史の先生たちもよく使っているらしいよ。蔵書が多いんだって」
と教えてくれた。専門家たちの間でも知られた図書館なのだとわかり、やっぱりそうなのか、と納得して、妙に誇らしい気分になった。
書架に並んでいる本だけでもかなりの量だ。利用客に見えない書庫にはどのくらいの蔵書があるのだろう。毎日図書館に通って一日中、本を読んだとしても、一生の間にはとても読み切れないだろうな、と思う。人間はこれほどの知を積み重ねてきたのだと感じ入ってしまう。ああ、この殺風景だけどワクワクに満ちた空間に一日中座っていたい!
置かれている本の中には、1年に一人とか二人とかしか読まないものもあるだろう。それでも、その1冊を求めてさまざまな人が集まってくる。小さな子どもとお父さん、お母さん、学生、大学院生、研究者風の人、定年後とおぼしき方――書き手と対話することで、思いがけない発見をしたり、新しい思考が導かれたり。
しかもすべて無料だ。開館から閉館までいても追い出されることもない。自分が納めている税金がこんなふうに使われているのはうれしい。貴重な市民の財産だと思う。
が、新聞に、気になる記事が載っていた。「私費頼み続く県立高図書」と題されたものだ。
神奈川の県立高で図書購入に充てられる公費は全国でも異例の少なさだ。文部科学省の17年度地方教育費調査によると、県内の県立高(全日制)1校あたりの図書購入用公費は年14万8千円。横浜市など県内の市立高(同)150万8千円、都立高(同)109万5千円とは比べようもない。(朝日新聞3月12日付、神奈川県版より)
その続きにはさらに驚かされた。各県立高校に渡される書籍購入の予算では足りないから、通っている高校生自身がお金を出しているというのだ。額は一人当たり数千円で、高額とはいえないが、だからといって、いいわけではない。
私の高校時代も図書館の本の購入代を払っていたのだろうか。何十年も前のことだからよく覚えていないが、このような話はこれまで聞いたことがない。住んでいたのは別の県だが、たぶんなかったと思う。
記事の中でコメントを寄せていた法政大の高橋恵美子兼任講師は「神奈川県は全国的にも珍しく、長い間、県立高の図書購入を私費に頼ってきた」と話している。小さいころから本を読むようにとことあるごとに言っている大人が、これからを生きる世代の書籍代に十分な予算をとっていないとはどういうことなのだろう。
また、大阪市では、2020年3月開館予定の「こども本の森 中之島」が、税金ではなく寄付金で建てられるという。市民から集まった寄付は5億円を超えたそうだ。市民の思いが集まったのは尊いが、何か腑に落ちない。運営は税金でまかなってくれるのだろうか。寄付にだけ頼っていては、先々追い込まれてしまうのではないか。
ここで話が飛ぶ。
4月10日、共同プロジェクト「イベント・ホライズン・テレスコープ」が、5500万光年かなたにあるM87銀河にあるブラックホールの撮影に成功した。黒い楕円の周りを光り輝くリングが囲んでいる。
このニュースを聞き、以前読んだ『巨大ブラックホールの謎――宇宙最大の「時空の穴」に迫る』(講談社ブルーバックス)を思い出した。この本は、ブラックホールの中でも特に銀河中心にある巨大ブラックホールに着目し、その不思議さを紹介していくという内容。巨大といってもあまりにも巨大すぎて想像を絶するのだが、太陽の10億倍もあるという。巨大ブラックホールは宇宙の誕生とも深くかかわっていると聞けば、がぜん興味をひかれる。
本書では、1916年のアインシュタインによる一般相対性理論の発表以降、さまざまな人がブラックホールをとらえるべく、昼夜を分かたず努力してきたお話も紹介されている。自分でパラボラアンテナを作ってしまった研究者、電波の異常を調べていたら星のシグナルをとらえた技術者など、偶然や努力の積み重ねで科学は進歩してきたことがわかる。
その本の著者、もしかしてこの発表している人では……!
「これが、人類が初めて目にしたブラックホールの姿です」
記者会見でこう述べたのは、やはり著者の本間希樹さんだった。約100年前、アインシュタインの一般相対性理論の中で存在が予言されていながらも、これまでだれもその姿を見たことがなかったブラックホールがついにその姿を現したというのだ。
そういえば本の最後の章に、これから撮影がスタートするというようなことが書いてあった。改めて読み直してみれば、きちんとイベント・ホラインズン・テレスコープのことも書いてあった(すっかり忘れていた)。
さて撮影成功のときの会見で、こんなやり取りがあった。
――この発見は、我々の普段の暮らしにどのような影響がありますか。
「直接には……ありません。でも改めて我々の天の川銀河の中心にもブラックホールがあるという確信にもつながりました。ブラックホールと銀河の成りたちは非常に関係が深いので、天の川銀河がどのようにできてどうなるのか、ということもわかってくるのだと思います」
質問した記者は、この回答では納得しなかったかもしれない。うがった見方なのかもしれないが、この質問は、ブラックホールがあるとわかって生活になにか変化があるのか、この撮影成功は社会にどのように役立っていくのか、とたずねているようにも聞こえた。
このブラックホール撮影成功のニュースを見ながら、唐突に図書館の本の購入代の話を思い出した。
直接、生活に変化をもたらしたり、役に立つものへお金を使うことはだれも文句を言わない。というか言えない。でも、本を買ったり、生活には無関係のブラックホールの観測には、そんなところに税金を使っていていいのか、もっと必要なところがあるのだから、減らそうという声も出かねない。
まず、本は役に立たないだろうか。直接には役に立たないかもしれないが、本がなくてはならない人はたぶん、世の中にかなりいると思う。また市民の共有の財産として、大切にしていってほしいと思う。横浜市立中央図書館にあるたくさんの本が、私はとても誇らしい。
では、ブラックホールの観測は役に立たないだろうか。
今は特に役立つとはいえないかもしれない。でも、いつどうなるかわからない。100年前、「空間が歪む」としたアインシュタインの一般相対性理論は、普段のくらしに影響はないし、役に立たないと思ってしまう。
ところが100年を経て、カーナビのシステムに一般相対性理論が使われていると聞けばだれもが驚くのではないだろうか。人工衛星を使ってGPSを動作させるとき、空間の歪みを考慮しないと、12㎞ものずれが生じてしまうことが本間さんの本でも紹介されている。
そう思うと、世の中で役に立たないこととは何だろうか。一見、役に立たないことだって、何かの役に立っているのではないだろうか。それはたとえば心の豊かさだったり、すごい!と感動することだったり、だれも行ったことのない宇宙の果てに思いをはせることだったり。
経済至上主義で、役に立つ、立たないで判断してしまいがちだが、そういう時代だからこそ、別の視点を持っていたい。人類史上に残る大きなニュースを見て、本間先生の本を再読しながら、あれこれと考えてしまった。
最後に余談です。以前、『ブラックホールをのぞいてみたら』(KADOKAWA)という本を担当した。著者の大須賀健先生は、天体観測に興味が薄いという宇宙物理学の理論の専門家なのだが、今回の観測成功のニュースを受けて連絡したところ、とても興奮していらした。お話しいただいた内容がとても興味深かったので、急遽インタビューにまとめてみた。よろしければ本とあわせて、お読みください。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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