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今回は、ジャン=リュック・ゴダール監督の『イメージの本』について、前稿の補遺/付記として、若干のコメントを断章形式で記したい。

*ゴダールは「あらゆる映画はすでに撮られてしまった」という諦念めいた認識とともに、長編デビュー作『勝手にしやがれ』(1959)を撮ったが、即興撮影と時間短縮のためのジャンプカットを大胆に取り入れた、従来の映画文法をご破算にするようなこのフィルムは、まさしく、ゴダールの“(最初の)最後の映画"――映画が映画であることの臨界点に達した――であったと言える。また『勝手にしやがれ』を準備する際、少人数スタッフによる街頭ロケを多用した低予算映画を目指していたゴダールは、敬愛するイタリア・ネオレアリズモの巨匠、ロベルト・ロッセリーニ監督の『イタリア旅行』に心動かされ、「男と女と1台の車があれば映画は撮れる」という教訓を得たが、いまやゴダールはこの発言を撤回し、“<フィルム・アーカイブ>――過去の映画の保管所/貯蔵庫――さえあれば映画は撮れる"、と言いたげである。すなわち、過去の映画の断片を自在にコラージュし、モンタージュ(編集)するだけで1本の映画は出来上がる、と……。とはいえ、これは天才ゴダールにしか出来ない離れ業であることも、また事実である。なおゴダールは、まもなくDVDも映画アーカイブも消滅し、ネットの動画配信だけが映画の観賞形態になる、という危惧を表明しているそうだ。なにやら現実味のある、不吉な予言のようにも読める未来予測だ。杞憂であってくれればよいが。

戦争や歴史について、理路整然と雄弁に論を進めるのではなく、映像や音楽のコラージュ、および着色・脱色・ハレーションなどの画面加工という<美学>――そもそも<美学>は<倫理>や<正しさ>とは一致しない場合が多い――に相即するように、しばしば吃音的にモチーフを切れ切れに断片化し、問題を提起するゴダールの不連続的な思考のかたちは、観客の理解を拒むような韜晦(とうかい:相手を煙にまくように意図的にわかりにくい表現をすること)とも受け取れる。しかし、こうした晦渋(かいじゅう)にも思える思考/表現へのゴダールの執着は、ゴダール自身の嗜癖や性癖のようなものだと思う。と同時にゴダールは、「わかりやすく伝わるもの」は、ただ「メッセージ」(とは何か?)として消費されてしまうことに、じゅうぶんに自覚的であるだろう(もっともゴダールの映画は、どこかに正解が隠された「難解さ」とも無縁だ。ちなみに、断続的なつぶやきによって何かを考えようとする、というのは、私たちもしばしば無意識にやっていることだ)。まあ、プラスの意味で「いい加減なコケオドシ」という性格だって、多分にゴダール映画にはあるだろうが、それがまたカッコイイから憎い御仁だ。しかしそこだけ見て、「ゴダールは面白い、カッコイイ」と――素朴さを装って――言うのもまた不毛なのだが(うーん、困った)……。

*ゴダールの<手>の映像への執着は、すでに『恋人のいる時間』(1964)、『カルメンという名の女』(1983)、『右側に気をつけろ』(1987)、『ヌーヴェルヴァーグ』(1990)に顕著に表れていたことは、松浦寿輝の高精度かつアクロバティックな「ゴダール」(筑摩書房、1997)の、23頁以下を参照。なお、蓮實重彦の影響を自家薬籠中のものにした当時の松浦の映画批評の文体は、自らがフィルムから感受した印象を、明晰かつ緻密に分析していくという、目の覚めるようなものであった。たとえば『ゴダールの映画史』(1988―1998)について、松浦はこう書く――「『映画史』でのゴダールは、「前衛的」という形容詞の重苦しさをあらかじめ無効にしてしまうような映像と映像、映像と音響、音響同士の離反と衝突の戯れを、ヴィデオの編集機によってしか可能とならない軽やかさで試しているのである。そこでの映像は、いかなる文脈からも断ち切られて宙を迷いつつ、断続するタイプライターの打撃のリズムに乗って、ゆるやかに浮かび上がり、唐突に点滅し、別の映像によって介入され、恣意的な色彩処理を施され、不意にまた闇の中に沈んでゆく」(前掲書、139―140頁)。ここで言われていることは、タイプライターうんぬんを除けば、『イメージの本』についても、かなりの部分が当てはまるだろう。もっとも私は前稿で、堀潤之の解読に依拠しつつ、『イメージの本』に引用された映画などのコラージュ群に、ある種のグループ分けを試みたのだが……。

*ゴダールの破天荒な3D映画、前記『さらば、愛の言葉よ』(2014)については、2015・02・25同・03・02同・03・09の本欄参照。

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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

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