
漢字、ひらがな、カタカナ……。英語表記がなければ外国人にはメニューを読むのも大変だ Photo: tibori/Shutterstock.com
漢字は廃止したい
前稿で書いたように、多くの問題をはらむ漢字をどうしたらよいのか。
「漢字」という移民社会・日本にたちはだかる宿弊
「国際語」としての日本語の欠陥を正す
理想的には漢字は廃止すべきだと私は思う。だが日本では、漢字をつかい始めてから少なくみつもっても1500年、なかでも今日しばしば使われる各種抽象語を多く造語した時期(明治期)からさえ、150年がたっている。そして今、この種の造語は多くの分野・場面に、いかんともしがたいまでに広がっている。たとえは悪いが、まるで末期がんのごとくにである。
もはや廃止は容易なことではない。ベトナムや朝鮮半島のようにそれを廃止した地域もあるが、残念だが日本語はベトナム語、韓国・朝鮮語とことなり音韻構造が単純であり、しかもヤマトコトバ(以下「和語」と記す)の造語力が十分発展させられずに来てしまった(後述)ために、漢字全廃は容易ではない。
なるべく和語を使う
だが日本語を、なるべく漢字を使わずに記すことはできる。
日本人にとって「訓読み」は和語そのものであり、したがって意味はただちに理解できる。私たちには、漢字の「音」(音読みの)それ自体で事柄をただちに理解することは――特に1文字の場合には――困難であるが、和語(訓読み)ならすぐに理解できる。
「隣家でかわれているのは『ケン』である」、と言われてもさっぱり分からないが、「いぬ」と言われればすぐに理解できる。隣も「リン」ではわからぬが、「となり」ならすぐわかる。家を「カ」と言っては意味不明だが、「いえ」ならわからぬ人はいるまい。
外国人にとっても同じである。彼らのためにも漢字はなるべくつかわず、和語(漢字の訓読み)を多くつかうべきである。外国人には、隣家(リンカ)より「となりのいえ」がよい。犬(ケン)より「いぬ」がよい。
なお私は、和語の漢字表記は総じてやめてよいと思う。前稿の朝日新聞の見出しに「巡る」とあったが、「めぐる」の方がはるかによい(漢字表記しない和語が長くつづく場合の対応については後述する)。
ただし梅棹忠夫が言うように、語幹が1音節の動詞には当面漢字をつかった方が無難かもしれない(梅棹忠夫編著『日本語の将来――ローマ字表記で国際化を』NHKブックス、249頁)。もっとも、「切る」「着る」や「煮る」「似る」に見るように(同上)漢字を用いずとも、文脈をふまえれば意味をとり違えることは少ないであろう。
まぜ書きあるいはカナ書き
今日、部分的にカナ(ひらがな・カタカナ両者をふくむ)を用いた「まぜ書き」が時に行われるが、たしかにこれを漢語改善の手段として使うことができる。例えば「憂うつ」「混とん」「範ちゅう」は、「憂鬱」「混沌」「範疇」よりまだしも読みやすい。
もっとも、後述するように「憂」「範」といった画数の多い字はそれ自体改良(簡体化)すべきである。またそもそも、まぜ書きよりもすべてをカナ書きする方がよい。「ゆううつ」「こんとん」「はんちゅう」で、十分に理解できる。
それを思えば、カナは漢字=本字に対して「仮名」(仮字)なのではなく、カナこそ和語を(漢字をさえ)表記するための本字なのではないか。歴史的に見て、これによって日本語表記がいかに楽になり、またそれがいかに日本語の発展に寄与したか。