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「7月の物語」〓bathysphere 〓 CNSAD 2018拡大ギヨーム・ブラック『7月の物語』の第一部「日曜日の友だち」 (c)bathysphere-CNSAD 2018

 ゴダール、トリュフォー、シャブロルらを立役者とした<ヌーヴェル・ヴァーグ/“新しい波”>は、1950年代末~60年代初めにフランス映画界に新風を巻き起こした“シネマ革命”であったが、このムーブメントの継承者として現在もっとも注目すべき新鋭は、1977年生まれのギヨーム・ブラック監督(仏)だ。実際、スタジオ外でのロケ撮影と反シナリオ的な即興演出を多用し、自主製作・少人数スタッフ・早撮りによる低予算の映画づくりを実践している点で、ギヨーム・ブラックは<ヌーヴェル・ヴァーグ>をリブート/再起動している、ほとんど唯一の現役監督である。

 ブラックはすでに、さびれたフランスの地方都市を舞台にしたヴァカンス映画、『女っ気なし』(2011)、パリから帰郷した落ち目のミュージシャンの恋物語、『やさしい人』(2013、初長編)――いずれも日常の中の非日常を切なくユーモラスにつづった傑作――などを撮っているが、公開中の『7月の物語』(2017、二部構成)においても、ブラックは、どこにでもいそうな若者たちの日常をカジュアルに描きつつ、彼、彼女らの間に小波乱が起こるさまを、きめ細かくスリリングに活写している。

 そして本作は、フランス国立高等演劇学校の学生たちとの協同作業、それぞれのパートの撮影日数が5日間、技術スタッフが3人、機材も最小限という、まさに<ヌーヴェル・ヴァーグ>的制作形態のもとで撮られた低予算/早撮り映画だ。

 さて、『7月の物語』は第一部が「日曜日の友だち」、第二部が「ハンネと革命記念日」と題されており、前者が33分、後者が38分の短編だ。どちらも一夏の恋や友情がモチーフのヴァカンス映画である――と言えば聞こえはいいが、そこで描かれるナンパや諍(いさか)いや三角関係のもつれなどは、かなり生々しく、ときに身もふたもないほどリアル=露骨であり、「え、こんなのあり?」という軽いショックさえもたらす。この「身もふたもなさ」――人間の欲望や生理を直視するという意味での<自然主義>的描法――にこそ、ブラックの崇敬の対象であり、また彼が大きな影響を受けた<ヌーヴェル・ヴァーグ>のヴァカンス映画の名匠、エリック・ロメールやジャック・ロジエの作品とも異なる、ブラックの独創性がある。

 そして、ブラックが「身もふたもなく」描くのは、私たちの多くが身に覚えのあるような事柄だが、それをこれほど巧みに、つぶさに映画の中に取りこむことが出来るのは、彼がやはり稀有な技量の持ち主だからに違いない(『7月の物語』では、シークエンスごとに手書き文字で「7月×日」と小見出し風のテロップが出るが、これはエリック・ロメールが好んだ日録形式)。

短編とは思えない濃密な恋愛ドラマ

 第一部「日曜日の友だち」は、ヴァカンスが始まった7月の日曜日、会社の同僚ミレナとリュシーが遊びに行った先の、パリ郊外セルジー=ポントワーズのレジャーセンターが舞台だが、そこで二人が監視員のジャンという青年に出会ったことから起こる、恋のもつれ、痴話喧嘩、友情の危機といったエピソードが、匂いたつように緑濃く生い茂った木々や草むら、および海を模した人工河川の岸辺などを背景に展開される(セルジー=ポントワーズは、ロメールの『友だちの恋人』(1987)の舞台でもあった)。――何より、ミレナに言い寄るジャンの、性的な欲望を隠さないストレートな振る舞いが滑稽かつリアルで、いくらなんでももう少し間接的にやればいいのに、と余計な心配をしたりしながらも面白がって観ていると、案の定、最初は満更でもない様子だったミレナは、ナンパの常習者らしいジャンの、あまりに直接的なアプローチに尻込みしてしまう。そして、ミレナがジャンにナンパされたことで、ミレナとリュシーの関係もぎくしゃくするが、さらにジャンの恋人の女がそこに絡み、恋愛ゲームはラブコメ+ドタバタ活劇のような頓狂な様相を呈する。

 いっぽう、リュシーが森の奥でフェンシングの練習をしている若者と出会うエピソードも、二人を取り囲むように美しく繁茂する草木とともに、印象深く描かれる(ギヨーム・ブラックは、撮影前の数ヶ月間、ジョン・フォードの映画を数多く観たというが、人物の周囲の自然をフレーム内に大きく取りこむ空間設計は、まさにフォード的だ。また、水辺を俯瞰ぎみに写す冴えたショットは、<ヌーヴェル・ヴァーグの父>ジャン・ルノワールの画面を連想させるし、一日の日差しの移ろいを繊細にレンズに写しこむカメラは、ロメール映画をほうふつとさせる)。

 かくして、「日曜日の友だち」では、二人組の女性の片方を口説こうとする男の行動が、女性同士の友情をも危うくするという、おそらく観客も身に覚えのあるだろうシチュエーションに、もう一人の女と男が加わり、30分余りの短編とは思えないほど濃密なドラマが展開される。


筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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