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不幸を増幅させる「デジタル宗教戦争」から逃れよ

情報の偏食をしないリテラシーを身に付ける

勝部元気 コラムニスト・社会起業家

Photo: インターネットの世界では人と人が接触する障壁が無くなり、「フラット化」した Photo: Rawpixel.com/Shutterstock

フラット化するネット世界と分断するリアル世界

 2005年、トーマス・フリードマンの『フラット化する世界』という本が世界的にヒットしましたが、インターネットの登場によって世界がフラット化されたと言われています。この「フラット化」というのは決して格差が無くなったという意味ではなく、情報にアクセスする際の障壁が低くなったことで、誰もが世界のどこまでも見渡せるようになったということでもあります。

 たとえば、芸能人から億万長者、子供から生活保護受給者に至るまで、みな同じSNSのアカウント上に存在し、相互にその存在を知ることができます。これまでは文化的に接触することが無かった集団がインターネット上では容易に邂逅できるのです。つまり、人と人が接触する障壁が無くなったという意味で、フリードマンの言うフラット化が起きたのです。

 また、SNSのフォロワー獲得という点で見ても、実力次第の部分が多く、競争環境は基本的に平等(フラット)です。資本やコネクションや社会経験を有することは多少有利に働くものの、アメリカの銃規制問題や香港デモのような社会運動をリードする大学生たちが、一気に何万・何十万ものフォロワーを抱えたように、若い人や持たざる者でも注目を集められる環境が実現したと言えるでしょう。

“ムラ文化”を外にいる人々にも押し付ける

 その一方で、リアルな世界ではフラット化は進んでいません。むしろ社会構造の複雑化や価値観の多様化、さらには格差拡大のように、人々の間の文化的かつ心理的な“距離”や社会の分断は広がるばかりです。そしてインターネット上でも基本的には自分と似たような文化圏(※「エコーチェンバー」)にいる人々と接することが多いのが日常でしょう。

 ところが、集団と集団の利害が対立するような出来事や、社会全体を揺るがすような事件・事故が発生すると、共通の話題が出現し、エコーチェンバーの見えない「壁」が無くなり、異質な者同士が同じ空間の中に混在するようになります。

 この時に、差別や人権侵害、構造的搾取等の譲れないラインに抵触さえしていなければ、「多様な考えや立場の人がいる」という前提を押さえた上で人と接することができればよいのですが、自分の思想や感情と異なる人々を全て敵とみなして攻撃する人が少なくありません。自分のいるエコーチェンバー内で通用していた“ムラルール”や“ムラ文化”を、ムラの外にいる人々にも押し付けてしまうわけです。

13_Phunkodshutterstock私たちはインターネットのツールに翻弄されているのかもしれない Photo: 13_Phunkod/Shutterstock

ネット上で頻発する「デジタル宗教戦争」

 たとえば、前述の登戸殺傷事件の記事でも書いたように、「潜在加害者への対策、事件の予防」を訴えた人に対して、「被害者へのケア以外はダメだ!」「被害者や遺族が見たくないものは一切表に出すな!」という意見が噴出していました。本来は「被害者へのケア」と「潜在加害者への対策、事件の予防」は両立するはずなのに、両者をゼロサム的に捉え、排他主義的に相手を否定してしまうわけです。

 私はこの現象を「デジタル宗教戦争」のようなものとして捉えています。「あなたはその宗教を信じているのね」「私はこの宗教を信じているよ」と、本来は多様な宗教は両立するはずなのに、「この宗教を信じないお前らはおかしい! 改心しろ!」と他人に押し付けることで宗教間の対立が生じるように、ネット上の彼らも十字架や錫杖(しゃくじょう)を武器に他人を攻撃しているわけです。

 この現象を俯瞰すると、人類が生み出したはずのインターネットという新しいツールを扱いこなすことができず、むしろそのツールに翻弄されている人類の姿が見えるのではないでしょうか?

 フラット化した世界を近視眼的なムラ社会的意識で見てしまうのも、1学級30人程度のような規模の集団で行っていたコミュニケーション方法を、全国津々浦々の人々相手にしてしまうのも、個人や個別集団の間に大きな情報の壁が存在していた過去の時代では起こり得なかった現象だと思うのです。

ネットは「不幸の倍増器」にもなり得る

 また、社会がフラット化した背景には、

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