政治家に必要な、涙とともにパンをかみしめる体験
冷静な判断力、実社会に関する体験と道徳的資質とともに
杉田聡 帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)

政治家に不可欠な資質とは何だろうか Photo: imacoconut/Shutterstock
前稿で私は、政治家にとって学歴・学校歴に意味はなく、重要なものは別にあると記した。それはいったい何か。
立候補者の略歴に学歴・学校歴はいらない
政治家に欠きえない冷静な判断力
「職業としての政治」論で有名なマックス・ヴェーバーは、政治家に求められる資質として「情熱、責任感、判断力」をあげていた。そして判断力とは、「事柄(事態)と人に対する距離〔を見はからう能力〕」である、と(ヴェーバー『職業としての政治』角川文庫、75-6頁、ただし訳はかならずしも出典とした訳書に従っていない。以下同じ)。
政治家は、一般にはもちえない権力によって市民・社会に多大な影響を及ぼしうる。それは市民生活に安逸を与えもすれば、苦痛をもたらしもする。人を生かすこともできれば、殺すこともできる。政治という営みは、それだけ厳粛な意味をもつ行為である。
だからこそ政治家には、情熱のみならず「冷静な判断力」(同77頁)が、「事柄と人に対する距離」が不可欠だと、ヴェーバーは記すのである。それを欠けば、「情熱」は統制のとれない興奮にいたる。これをヴェーバーは政治家にとっての大罪と記すが(同前)、今日、与党にはその種の「政治家」が多すぎると私には思われる。満足な説明責任もはたさずに強行採決に訴える様子を見ていると、彼らは政治家として大罪をおかしていると感ずる。
政治家に欠きえない観察者の立場・歩みよる資質
では、いったい何が、冷静な判断力の行使を可能にするのであろう。
政治思想家のハンナ・アーレントは、美学を論じたカントの『判断力批判』を政治哲学書として(多少むりに)読もうと試みたが、その中で唯一成功したと思われるのは、冷静な判断力行使を可能にする条件を明示したことである。
アーレントは、政治家は行為者でありながら、己の活動についての公平な観察者となる必要があると論じ、その場合に、少数派を含めた市民との共生を可能にする「共同体感覚」を、政治家固有のエートス(持続的な性格・倫理観)として重視した。
政治家は政党に属するのがふつうだが、そのために己の立ち位置をせばめてしまう結果になることが多い。しかも今日、与党の場合、党内で自由な議論ができる余地は極小化している(朝日新聞2019年6月13日付「朝日・東大共同調査/自民 15年で進んだ純化」を参照)。
だが政治家にとって最も重要なのは、この共同体感覚――分断ではなく、同じ市民としての共生可能性を重視しようとする市民感覚――であり、それを保持した公平な観察者(第三者)の立場に立てることである(アーレント『カント政治哲学の講義』法政大学出版局、77頁、109頁)。
社会契約説で名高いルソーも、政治家の資質について重要な発言を行った。近代的価値の実現をめざした政治団体(国家)は、人々があい集って総意を形成し、その指揮の下に、全員の利益を配慮しつつ運営されなければならない、と(ルソー『社会契約論』岩波文庫、30-1頁;ルソーは直接民主制論者であるため「人々」は市民全体をさすが、間接民主制論として「議員」と読んでよい)。
要するにルソーは、特定の集団(党派)の立場に偏するのではなく(同48頁)、少数派を含めた全成員の総意(一般意思)によって法を制定する必要がある、と論じたのである。
もちろん総意形成は、問題によっては困難かもしれない。だがこれは、民主制下の政治理念として不可欠である。そして総意形成のためには政治上の技術も重要だが、はるかに重要なのは、少数派の利益を考慮し我意(特殊意思)をすてて歩み寄る、人々(議員)の道徳的資質である、と論じている(ルソー『エミール』河出書房新社、555頁)。
世の英知に従えば、政治家に不可欠なのは以上のような資質である。