松本裕喜(まつもと・ひろき) 編集者
1949年、愛媛県生まれ。40年間勤務した三省堂では、『日本の建築明治大正昭和』(全10巻)、『都市のジャーナリズム』シリーズ、『江戸東京学事典』、『戦後史大事典』、『民間学事典』、『哲学大図鑑』、『心理学大図鑑』、『一語の辞典』シリーズ、『三省堂名歌名句辞典』などを編集。現在、俳句雑誌『艸』編集長。本を読むのが遅いのが、弱点。
※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです
今年4月からこの「神保町の匠」も中身が変わった。2008年に三省堂書店の書評サイト「神保町の匠」(2014年から「三省堂書店×論座 神保町の匠」)としてスタートして10年余、書評のスタイルではネットではあまり読まれないので出版・書店・書き手など本の周辺の話題を書くことにしてはどうかとの「論座」担当者の提案を受けてのリニューアルである。
ネットで検索してみると、「書評ブログは読まれない」という記事が結構ある。
ネットだけではない。新聞書評もそれほど読まれないという。2003年から設けられていた毎日書評賞(2013年からは毎日出版文化賞書評賞)も2016年にはなくなっている。本そのものが読まれなくなっている現状が背景にあるが、本好きにとって書評は大切な読書の指針であるはずだ。なぜ書評は読まれないのだろうか。
丸谷才一『快楽としての読書 日本篇』(ちくま文庫)によれば、新聞・雑誌の書評の目的は第一に読者がどんな本を買い・買わないかを決めるための買物案内である。そのため書評はまず信頼されなければならない。そして信頼されるためには書評者の知名度などの要素もあるが、何よりもしっかりした文章、芸のある語り口、バランスの取れた評価など、その書評の書き方から受け取る感じが大事だという。
不特定多数の人が書く書評ブログはこの信頼感に欠けるかもしれない。
では新聞書評はどうか。
今年4月27日付の「朝日新聞」に目を疑うような書評があった。
見出しは「重ね刷りがアートに昇華する時」。『美術は魂に語りかける』(アラン・ド・ボトン、ジョン・アームストロング著、ダコスタ吉村花子訳、河出書房新社)という本の横尾忠則の書評である。書評文の上にわざと印刷の工程で出てくるヤレ(重ね刷り)を重ね、読めない状態にしている。どんなことが書かれた本なのか、全くわからない。ふつうに読める状態で印字された「好書好日」でその書評を読んでも、美術理論の本なのか、哲学的な本なのか、癒し系の本(原題は「セラピーとしてのアート」)なのか、もう一つわからなかった。
丸谷も指摘するように新聞の読者は、まず読書案内として書評を読むのではないだろうか。そういう読者にとって、どんな本なのかわからない書評は困る。何人かにこの記事を見せて意見を聞いてみたが、知らないか気にかけていない人が多かった。この書評は書評欄に耳目を集めようとする思いきったパフォーマンス(美術家と編集者の合作?)とみるべきなのかもしれないが、それほど注目を集められなかったようだ。