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『旅のおわり世界のはじまり』、前田敦子の絶妙さ

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

『旅のおわり世界のはじまり』黒沢清監督『旅のおわり世界のはじまり』=提供・東京テアトル

 黒沢清監督、前田敦子主演の『旅のおわり世界のはじまり』は、全編がウズベキスタンでロケ撮影された、途方もない傑作である。ただし、シルクロードを舞台にした壮大なドラマではなく、ミニマルな<小品性>で見る者を魅了する、ヒロインの成長物語だ。『Seventh Code』(2014)、『散歩する侵略者』(2017)に続いて3回目の黒沢作品への出演となる前田敦子は、歌手になる夢をもつテレビレポーター、葉子に扮するが、本作の<小品性>は何より、ヒロインの内面と言動のみに焦点を絞った作劇にある(上映時間120分)。

――すなわち、バラエティー番組、“幻の怪魚発見”のレポーターとしてウズベキスタン入りした葉子は、撮影が予定通りに進まないなか、孤独や不安を募らせていくが、そんな彼女が、もっぱら焦点人物、ないし視点人物となって、いわば1人称ドラマのかたちで映画は展開する。したがって、ほとんどの場面に葉子/前田敦子は登場し、そうでない場面も、彼女の視点を通した(彼女の主観的な)シーンである。この大胆なアイデアは見事だ。こうした視点の限定ゆえに、私たちは葉子の内面――葛藤や寄る辺なさ――に感情移入できるからである。

 また、全編を通じて描かれるのは、葉子の体験する、出来事とは呼べないほど小さな出来事の連鎖だ。そのことも、1人称的な作劇とあいまって、本作の<小品性>の核となる(舞台は古都サマルカンド、その北に位置するアイダル湖、首都タシケント、山岳地帯ザーミンなどだが、つまりこの映画は、異国で撮られたから、という理由だけでなく、一度ならず描かれる、葉子が異国の中をワゴン車やバスなどで移動する場面によっても、典型的な<ロードムービー>の作風を帯びる)。

 さて、葉子をしばしば戸惑わせる「小さな出来事」は、ウズベク語しか通じない現地の人々と彼女の、コミュニケーションのすれ違い、齟齬(そご)であり、カルチャー・ギャップであり、それによって生じる撮影の遅れである。そして、葉子の直面する、異なる言語と文化をもつ人々=他者とのディスコミュニケーション、および物の見方・価値観の相違こそ、本作で反復、変奏される主要モチーフのひとつだ(黒沢清の卓抜な脚本は、物語的な起承転結を度外視しつつ、このモチーフを要所要所で取りこみ、それらがそのつど、小さなヤマ場となるように構成されているので、本作は一瞬たりとも観客の興味を逸らさない)。

 さらに、こうした意思疎通の齟齬によって、葉子に同行する番組クルーら、とりわけ、仕事の効率にこだわるディレクターの吉岡(染谷将太)は、苛立ちを募らせる。もっとも、あくまで葉子の内面や言動にフォーカスされる本作では、吉岡やベテランのカメラマンの岩尾(加瀬亮)、気のいいADの佐々木(柄本時生)らのクルーは、ほとんど前面に出ない(にもかかわらず、いやむしろそれゆえに、彼らのちょっとしたセリフは印象に残る)。

黒沢清監督『旅のおわり世界のはじまり』=提供・東京テアトル黒沢清監督『旅のおわり世界のはじまり』=提供・東京テアトル

意思疎通の齟齬によって生じる受難

 こうした、意思疎通の困難というシチュエーションにおけるキーパーソンは、通訳兼コーディネーターのテムル(アディズ・ラジャボフ)だ。日本語に堪能な(という設定の)テムルは、葉子やクルーと現地の人々との橋渡しをすべく、有能な通訳兼コーディネーターとして振る舞う。だが、ときにテムルが日本語に丁寧に通訳する言葉は、まさにその律儀な丁寧さゆえに、日本人と現地の人々とのちぐはぐな会話に、奇妙なサスペンスと可笑しさを加味する。

 たとえば、広大な湖に浮かぶ小さな漁船の上で、葉子が“怪魚レポート”をする場面。ジャージにゴム胴長、さらに救命胴衣を着た葉子は、漁師に、怪魚は本当にいるのかと聞くと、漁師は、運が良ければ怪魚は罠に掛かる、と言う。葉子が、わたしはだいたい運悪いんですよね、と応じると、漁師は、運は誰にとっても平等だとか、おそらく適当に、そして不愛想に答える……。むろん観客は、この一連のやりとりを、やはり救命胴衣を着たテムルの、几帳面な通訳によって理解するのだが、漁師のぶっきらぼうで真偽が疑わしい言葉を、テムルがニュアンスを抜いたデスマス調で丁寧に訳すところに、珍妙なユーモアが生まれる。

 しかし、テムルを介した葉子と漁師との問答は、いささかも笑えない、居心地の悪くなるような結末を迎える。漁師は相変わらず不愛想な口調で、魚が捕まらないのは船に女を乗せているせいだ、魚は女の臭いを嫌う、という意味のことを言い出す。するとテムルは

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