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『旅のおわり世界のはじまり』、自己実現のドラマ

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

『旅のおわり世界のはじまり』=公式サイトより『旅のおわり世界のはじまり』=公式サイトより

 今回は『旅のおわり世界のはじまり』で、2回目に描かれる葉子の自己実現のモチーフを、そのラストのヤマ場に至る迂回的なエピソードとともに見ていこう。

――ナボイ劇場で幻覚を体験したのち、葉子はレポーターの仕事を再開するが、心は塞いだままで、彼女の表情は相変わらず冴えない。そして葉子は、自分はこんなところにいていいのか、もっと他にやるべきことがあるのでは、という思いを募らせていく。

 もちろん、こうした葛藤を葉子が強く意識するようになったのは、あのナボイ劇場での<啓示>を体験したからだが、そんなある日、彼女はレストランで、カメラマンの岩尾/加瀬亮とおおよそ次のような会話を交わす。――葉子「今の自分は本当にやりたいことと、どんどんずれていってる気がする、自分の本当にやりたいのは歌うこと、歌手になることです」岩尾「全然ずれてない、観客に向けて歌う、視聴者に向けてレポートする、どこが違うのか」葉子「心のあり方が違う、レポートは反射神経があればできますが、歌は心の底から湧き上がる感情がないと歌えません」――。

 言うまでもなく、ここでの葉子の率直なセリフは、彼女が今置かれている不本意な状況と、彼女の自己実現への夢との対比を鮮明に浮き彫りにする、いわば本作の物語とテーマを圧縮するような言葉だ。そして、さらに葉子は岩尾に、日本に戻ったらミュージカルのオーディションを受けることを打ち明け、それに受かるか受からないかで自分の人生は決まるとさえ言う(このシーンでも岩尾は、少しも説教臭くならずに、カウンセラーないし控えめな助言者のように、あるいはフランス古典演劇における相談相手confident(コンフィダン)のように、抑制的な受け身のキャラクターに徹していて、実にいい)。

 さて、葉子の葛藤と夢が彼女自身の言葉によって具体的に語られるこのシーンは、とりもなおさず、いくつかの迂回的なエピソードを経て、映画をラストのヤマ場へと導くイントロの役割を果たす。

小さなトラブルの連鎖/迂回的エピソード

 したがって『旅の終わり――』では、迂回的なエピソードはけっしてサブストーリーではない。本作での物語上の<迂回>が描くのは、主要モチーフである葉子らと現地の人々との、言葉が通じないゆえの意思疎通の齟齬であり、それによって生じる葉子の受難やクルーの苛立ちである点で、またそれらが葉子の自己実現のモチーフと相即している点で、メインストーリーそのものであるとさえ言える。

 換言すれば、こうした<迂回>は、つまるところ、葉子の自己実現のモチーフという<中心>に向かってなされるわけだ。この点を確認しつつ、ラストのヤマ場に至るまでの、小さなトラブルの連鎖である迂回的エピソードを、ざっと見ておこう。

<水族館>のシーン

 タシケントの水族館に怪魚ブラムルがいる、という情報を得た葉子らは水族館に行くが取材を拒否される。吉岡がその理由をテムルに聞いても、彼の答えは要領を得ない(端的な黒沢的ディスコミュニケーション)。キレた吉岡は、「企画が根底から崩壊してるよ、何なんだよこの国、俺のディレクター生命も終わったよ、これで」などと言う。

<建物の屋上にある食堂>のシーン

 テムル/アディズ・ラジャボフがナボイ劇場のレポートはどうかと提案し、彼自身がその建築への愛着と沿革――第二次大戦下、ソ連の捕虜となった日本人が建設に貢献したことなど――を、延々と日本語で(!)語る長回しを含むくだりに感嘆する。が、吉岡はテムルの提案を視聴率が取れないという理由で却下。吉岡と岩尾は口論になる(意思疎通の不全)。

<チョルスー・バザール(タシケント最大の市場)→警察署、のシーン>

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