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私たちの記憶はどこへ? 知と書物を考える一冊

佐藤美奈子 編集者・批評家

Photo: Max/Shutterstock.com拡大中世の修道士は聖書の詩編を体を揺すりながら朗唱したりしたという Photo: Shutterstock.com

知の獲得=身体を使った記憶

 たとえば、素読という経験は人々に何を与えたのか。武士の娘として明治6(1874)年に生まれ、後に渡米した作家杉本鉞子(えつこ)は、6歳から四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)の素読を施された。「幼いのですから、この書の深い意味を理解しようとなさるのは分を越えます」と諭されながら受けた素読について、後年著した自伝で次のように記す。

杉本鉞子(長岡市提供)拡大作家・杉本鉞子=長岡市提供
 「正しくその通りだったわけですが、私は何故か勉強が好きでありました。何のわけも判らない言語の中に、音楽にみるような韻律があり、易々と頁を進めてゆき、ついには、四書の大切な句をあれこれと暗唱したものでした。でも、こんなにして過したときは、決して無駄ではありませんでした。この年になるまでには、あの偉大な哲学者[孔子]の思想は、あけぼのの空が白むにも似て、次第にその意味がうなずけることもございました」(『武士の娘』)。

 素読の意義とは、「意味という概念の定着する意識を透りぬけ」た言葉を、「より深い無意識の層に、つまり身体性にまで沁みとおらせる」ことにあった。内田百閒や湯川秀樹も、素読の同様の恩恵にあずかったエピソードが紹介される。

 つまり、素読が可能にする知(ここでは四書の言葉)の獲得とは、何度も声に出し暗唱することで、言葉をその人の「身体性にまで沁みとおらせる」ことだった。「暗唱」とあるように、知の獲得は身体を使って記憶する行為と不可分なのだ。

 こうした、身体に結びついたものとしての記憶=知のありようは、もちろん、日本にだけ見られるのではない。中世ヨーロッパの修道院においても、修道士は聖書の詩編を暗記するために「体を揺すりながら朗唱したり、リズムをつけて歌ったりした」。

 中世欧州の修道院文化では、読書とは音読を指すことが一般的だった。なぜ黙読が難しかったかというと、当時の書記法では「語間のスペースもなく、句読点も、大文字・小文字の区別もな」く、文章が「びっしりと隙間なく記されて」おり、「読むには一語一語を分節しながら声に出して、あるいは指先で一字ずつたどりながら読み進めるほかはなかった」からだ。だから当時の読書は「全精神とともに全身体をともなう行為」であり、「運動療法を必要とするいくつかの病気」にかかった人に、「医師たちは、散歩や競争や球技とならんで、体操として読書を勧め」、「反対に、病気の修道士はしばしば体力を消耗する読書を控えなければならなかった」という。

 読書する上での、このような苦労を軽減したのが、「句読点」の考案と「分かち書き(単語と単語のあいだにスペースを空ける、現在一般的に見られる書記法)」の採用だ。12世紀のフランス全土に黙読が広く普及していった背景には、こうした書記法の変化があった。句読点の考案や分かち書きの発達はさらに、13世紀半ば、フランスの修道院での最初のアルファベット順索引の誕生を可能にした。

 欧州における大学の成立、それに伴う知識人の誕生や都市の発達などが相まって、「それまで修道院内の限られた学生を対象にしていた教育方針が変革を迫られ」たことも、索引誕生を促した。つまり「知識の習得を重視する合理的な方法」が求められた結果、索引が作られるに至ったのだ。

こうして、読書という行為は「修道士の読書」から「学者の読書」へと変容した。聖書の一言一句のみならず注釈書、写本同士の関係まで残らず暗記していたトマス・アクィナスをはじめ「自身が生きた用語索引であった中世人」は、現物としての索引を必要としなかった。ところが知の合理化が進むなかで彼らは姿を消す。「かつて記憶によってなされていた固有の知識体系の構築をはるかに容易にした」当のものが、索引ということになる。

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筆者

佐藤美奈子

佐藤美奈子(さとう・みなこ) 編集者・批評家

1972年生まれ。書評紙「図書新聞」で記者・編集者をつとめた後、2008年よりフリーランスに。現在、講談社などで書籍編集・ライターの仕事をし、光文社古典新訳文庫で編集スタッフをつとめる。自身の読書の上では吉田一穂、田村隆一といった詩人の存在が大きい。「死と死者の文学」を統一テーマに「古井由吉論」「いとうせいこう・古川日出男論」(各100枚)を『エディターシップ』2、3号に発表。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです