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「哲学対話」でなぜ人は救われるのか?

小木田順子 編集者・幻冬舎

無目的な拡大梶谷真司さんの「哲学対話」では、参加者は発言しなくてもかまわない=提供・宮台由美子

何を言ってもいい、否定されない

 哲学対話の魅力はいったいどこにあるのだろうか?

 それについては、梶谷さんが『考えるとはどういうことか』の中で詳しく書いている。また最近では、日本経済新聞デジタル版で、哲学対話をとりいれた偏差値40の高校で、有名私大や国公立大への合格者が相次いだというルポ「キセキの高校」が連載され、大きな反響を呼んだ。なので、今さら私がヌルい感想を言ってもという気はするのだが、それでも5回参加してみて、自分が対話に惹かれている理由がわかってきた。

 それは「ここでは、値踏みされずに話すことができる」ということだ。

 梶谷さんがやっている哲学対話には、以下の8つのルールがある(哲学対話は、いろいろな人がやっていて、主催する人によってルールも少しずつ違うので、これはあくまで梶谷さんのルールだ)。

(1) 何を言ってもいい。
(2) 人の言うことに対して否定的な態度をとらない。
(3) 発言せず、ただ聞いているだけでもいい。
(4) お互いに問いかけるようにする。
(5) 知識ではなく、自分の経験にそくして話す。
(6) 話がまとまらなくてもいい。
(7) 意見が変わってもいい。
(8) 分からなくなってもいい。

 参加してみると、このルールはとてもよくできていて、これが哲学対話の魅力を生み出していることがわかる。

 あらゆるミーティングや会議が、「何でも自由にご発言ください」とうたっていても、実際は、空気を読み忖度することが要求され、上司の意に沿わないことを言えば査定に響く……などということは、誰にとっても日常だ。

 じゃあ、TwitterのようなSNSで自由に発言しようと思っても、「こんなことを言えば炎上しないか」という不安は常につきまとう。炎上案件となるような尖った内容の発言ではない、日々よしなしごとの呟きであっても、今回は「いいね」が多かった少なかった、ちょっとは気のきいたことを言わなきゃと、なかなか穏やかな気持ちではいられない。

 だが、哲学対話では、否定されない、否定的な態度をとられないということがわかっているので、心から安心して何でも言うことができる。

 否定されないだけではない。梶谷さんは「共感もいらない」「共感しているという素振りを見せなくてもいい」という。だから、梶谷さんが主催する哲学対話では、ファシリテーターは「それはいい問いですね」とか「それはおもしろいですね」といった褒めるコメントも一切しない。だから参加者は、「いいことを言わなきゃ」というプレッシャーからも自由だ。

 それにそもそも、発言すること自体が求められていない。たくさん発言する人も、何も言わない人も、扱いはまったくフラット。発言しなくても、なんの引け目もなく、そこに座っていていい。「自分が孤独になれる時間だから好き」といって対話に参加する人もいるくらいだ。

 また、ルール6にあるように個々の発言にまとまりがなくてもいいだけでなく、対話全体にもまとまりがなくていい。何らかの合意や結論に至ることは、まったく求められていない。所定の時間がくると、ファシリテーターは「ではここまでにしましょう」と、なんの締めもなく、ぱたっと対話を終わらせる。

 実際のところは、テーマや参加者の属性によって、話の濃さや盛り上がりに差はある。私は体験したことがないが、参加者が思わず泣いてしまうような、いわゆる「感動的な」対話も少なくないそうだ。だが、梶谷さんの哲学対話には、「うまくいった・いかない」というモノサシがないので、何回参加しても、体験をその都度リセットしていい。「前回はいい対話だったから、今度もそうなるといいな」という期待からも自由だし、イマイチだったらそのとおりイマイチだったと思っておけばいい。だから身軽に参加できる。

値踏みされずに話せる貴重な場

 そんな無目的な、野放図な言葉のやりとりが、対話と言えるのか、なぜ楽しいのか、何の意味があるのか。そう思う人は当然いるだろう。

 今回、私が入ったグループは、「仕返しはどこまで許されるのか」という問いをテーマに対話をした。「お腹に石を詰められたオオカミが池に落ちて死んだあと、助かった子ヤギたちが池のまわりを踊りまわって喜ぶのは、子どもの教育上どうなのか?」という意見や(衝撃のラスト!)、「自分は人から攻撃されやすい。だから、恨みの感情がすごく強い。報復は法律で禁じるしかないが、復讐心は人間の本能だから、感情として消えることはないと思う」という意見など、話は広がりつつ深まり、深まりつつ広がり、50分の間に、押しつけ圧のない、心地よい一体感が醸し出されてくるのが感じられた。

 対話を終えたあとには、感想を言い合うアフタートークがある。「攻撃されやすく、恨みの感情が強い」と語った青年が、「自分はいつも一方的に話しがちで、周りから引かれてしまう。今日はルールがあることで一方的にならず、周りに自分の言うことを聞いてもらえたし、自分も周りの話を聞けたのがとてもよかった」と話してくれた。対人関係があまり上手でなさそうに見える彼が、たった50分でも、安心して人と語り合える時間を体験できたことが、なんだか我がことのように嬉しく、胸が温かい思いで満たされた。

 彼だけではない。私自身がそうなのだ。

 最近は、本にまつわるイベントや、プロモーションとしてのSNSなど、編集者も発信を求められる機会が増えた。そこでは編集者は、どんな本を担当してきたかということより、「〇〇万部のベストセラーを手がけた○○さん」が、どんな「いいこと、面白いこと、ためになること」を発信するかで、値踏みされる。最近のことにかぎらない。そもそも編集者の最大の仕事は執筆者を口説くことで、それはイコール、執筆者に自分をできるだけ高く値踏みしてもらえるよう、自分をアピールすることだ。

 そのような値踏みから自由になって、自分の考えたことを言えるのは、私だって「哲学対話」の場ぐらいしかないのだ、振り返ってみれば。

 初めて哲学対話に参加してから約10カ月。数カ月に一度、毎回1時間足らずの哲学対話は、私にとっては、素の自由な言葉を取り戻す時間だったのだと思う。出版の市況が厳しくなり、日常での「値踏み」され度がますます高まるなか、哲学対話を知ったことで、私の精神は、あまり荒(すさ)まずに済んでいるのかもしれない。

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筆者

小木田順子

小木田順子(こぎた・じゅんこ) 編集者・幻冬舎

1966年、長野県生まれ。90年、PHP研究所に入社。PHP新書創刊に携わる。2005年、幻冬舎に入社し、幻冬舎新書の創刊に携わる。気がつけば、編集者人生の大半を新書編集者として過ごしている。担当した本は村山斉『宇宙は何でできているのか』(新書大賞2011)、香山リカ『しがみつかない生き方』、國分功一郎『来るべき民主主義』など。書評誌『いける本・いけない本』編集長も務める。