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津波のがれきに混じっていた被ばく関連の本

長岡義幸 フリーランス記者

被ばく労働関連のルポを立ち読みしたころ

 東日本大震災によって福島県南相馬市小高区(旧小高町)にあった私の実家は津波にのみ込まれ、津波が襲う直前に自宅を離れた妹ら一家は、東電福島第一原発の爆発によって強制避難を余儀なくされた。警戒区域に指定された後、妹は避難所から「一時帰宅」して自宅跡のまわりを見に行き、「津波に流された本を拾ってみたら、そこに被ばくの話が載っていた。部落でああいう本を読む人がいだんだな」と、東京にいる私に電話で教えてくれた。ただ、その本は置いてきたので、正確なタイトルは覚えていないということだった。

 実家のあった浦尻部落は、旧小高町の中心部の“町”から見ると、海側ではもっとも遠い“在”になる。行政区全体の戸数は100ちょっと。このうち太平洋を望む堤防沿いに50~60軒が密集し、部落全体で18人が津波で亡くなってしまった。第一原発からは直線距離で11キロメートルほどのところに位置し、高台の開墾地は、隣の部落の浪江町棚塩とともに東北電力浪江・小高原発の予定地にもなっていた。

 浦尻では、漁家も含めて住民の大部分が兼業農家で、原発の下請け企業を勤め先にする人も多かった。農業と出稼ぎに勤しんでいた亡父も第一原発の1号機が稼働した後、1973年ごろから原発作業員として働きはじめ、その後、建設会社を興し、下請けとして原発の工事や定期検査、ランドリー業務などに携わるようになった。同じ部落の人はもとより、小高町内、相双(相馬地方と双葉地方の総称)、浜通り(福島県の沿岸部を指す地域名)一帯の人々が父の会社で働いていたこともあった。

 いっとき、家の近くの田んぼの畔には「浪江・小高原発絶対反対」と朱色の文字で大書された木製の看板が立っていたことがある。けれども、部落として原発受け入れを決め、いつの間にか看板が撤去されて以来、私が中学生、高専生として過ごした1970年代半ばから80年代はじめにかけては、浦尻でも小高町全体でも、原発反対を公言する人に出会うことはほとんどなかった。原発批判の声は、ときどき新聞折り込みとして届く、隣の部落にある「棚塩原発反対同盟」のビラで目にするぐらいのものであった。

 加えて、当時、小高町には、愛真堂書店とすずそう(鈴木惣兵衛)書店の2軒の本屋があったものの、反原発書はもとより放射線の取り扱いについて書かれた本も店頭で見かけることはなかった。ただ、隣の浪江町にある4軒の書店のうち、たった1軒、郡書店にはなぜか棚1段分か半段分かだったか、反原発関連書がまとめて置いてあった。

堀江邦夫『原発ジプシー』(現代書館拡大堀江邦夫『原発ジプシー[増補改訂版]――被曝下請け労働者の記録』(現代書館)
 父が仕事仲間と家で酒を飲みながら「今日は15分でアラームが鳴った。あとはずっと事務所で暇つぶしだった」とか、「仕事中にプールにつっぺって2人死んだ
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筆者

長岡義幸

長岡義幸(ながおか・よしゆき) フリーランス記者

1962年生まれ、福島県小高町(現・南相馬市)出身。国立福島工業高等専門学校工業化学科卒業、早稲田大学第二文学部3年編入学後、中退(抹籍)。出版業界紙『新文化』記者を経てフリーランスに。出版流通・出版の自由・子どもの権利・労働などが主な関心分野。著書に『「本を売る」という仕事――書店を歩く』(潮出版社)、『マンガはなぜ規制されるのか――「有害」をめぐる半世紀の攻防』(平凡社新書)、『出版と自由――周縁から見た出版産業』(出版メディアパル)ほか。震災・原発事故関連の共著書に『除染労働』(三一書房)、『復興なんて、してません――3・11から5度目の春。15人の“いま”』(第三書館)なども。